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2013/06/04

「人は愛されるより理解されることを望むものなのだろうか」/『一九八四年』新訳版

(ちょうどkindle版がポイント還元で実質半額セール中。とっても好きな作品なので、サイトの奥に塩漬けになってた2009/8/17の感想文の再掲です。修羅場中のため新しい記事でなくてすみません(^^;)。セールは期日がわからないので、タイミングによって半額終わってたらこちらもご了承くださいマセ)


 昨日はコミケ疲れを癒しながら自分にごほうびということで(?)、久しぶりに喫茶店でがっつり読書。(迷惑な客(笑))コミケで中断していたジョージ・オーウェル『一九八四年』を読了いたしました。…圧倒されましたです。「指は四本?五本?」で「ああ、あったなこれ」と思い出しました。ビッグ・ブラザーという男性の顔に象徴された、「党」に精神まで徹底的に支配される世界で、ひそかに自分のアイデンティティーを保とうとする男性が主人公なんですが…。こんなに壮絶な話だったっけ…?と、ちょっと唖然とするくらいでした。新訳でもあるし、自分の理解力や目のいくところも変わったのかもしれません。


読み終わって、解説を読みたくなかったのでまだそこは読んでません。なんか、権威者(?)の「正解」を提示されてしまう前に、自分で咀嚼しておきたくて。書かれた当時は当然共産主義の脅威とか、具体的な風刺対象があったことが読み取れますが、今読むともっと別の、今の自分たちが直面しているものが書かれている、と読める…。これが古典化ということなんでしょうね。ちょうど、最近買ってちらちらと再読した『思考の整理学 』(…東大生にすごく売れたとかオビがあって、小心者にはかえって手に取りにくかったです(^ ^;)。いまさら東大生・京大生にあやかろうとは思わんからやめてぇん…(笑))にもそんな話題がでていたので、まさにこのことだなあ、と思いました。時間を経ることでリアルタイムの風刺が抜け落ちて、読者が自分の世界観に応じて読み換える…それを受け容れる余地のあるものが古典になるんですね…。 今読むと、ほんとに今の状況を寓話にしたものとしか思えません。「惜しい!こんなところで誤植!?」(笑)てなところもあるんですが、ほんとにおすすめです。スカッとはしません。(笑)でも目を開かれました。

「二重思考」という造語が出てきます。「党」の発表しだいで、自分の記憶を改ざんするための精神的技術(?)なのですが、これは極端に描かれているものの、同じものが自分たちの周りにもある。そういうふうに、意識しなければ見えなくなっているものが見えるようになります。なってしまいます。ある意味困ります。

あらゆる意味での権力者は二重思考をし、被支配者にもそれを強制する。
支配される者の視点にあるとき、二重思考はしばしば許しがたい精神的暴力である。
…ということ。
また、微妙な形での二重思考は、ある種の権力(とても小さなものであれ)をもったとき、誰もがしてしまいがちだ、ということ。とくに組織の中では「そうせざるをえない」と割り切ることがあります。…だから、でてくる「悪役」にも感情移入はできてしまう。この恐ろしさ。
一方で、主人公ウィンストンがおかす「思考犯罪」も、現代の状況に相似します。自分でものを考えることが疎まれる社会であるのは、ある意味今現在でもそうでしょう。

今属しているなにか…広い意味で「グループ」としましょうか…から、理性的に抜きんでることへの、無言の攻撃。これは階層的なものなので、どんなに高層の(?)グループに移動しても起こることでしょう。(くだらない例で言えば、喫煙家の仲間は禁煙することを邪魔しようとする、みたいな(笑))もっと言えば「世間一般」から浮かないために、広い意味で「愚鈍さの仮面」をつけたことのない人なんて、いないと思います。これはある意味礼儀や常識になっていて…ああ、またちょっと横っちょに連想しちゃったんですが、ブログ(別にやっている読書ブログ・としま腐女子の読書ノートのほうで引用したジョン・スチュアート・ミルの『自由論 』の一説がまさにそれ。「道徳は大部分、支配階級の利益と感情から生まれたものである」。

「こんなこと」には盲目であったほうが楽だし、上手に世間を渡れる、という種類のことに、盲目になりきれないとき。
「二重思考を身につけ損ねている」ことを、隠し切れないとき。
それは一種の「思考犯罪」として、現実には逮捕なんかされないものの、 世間から隠微な形で制裁を受けている、と思います。ムラ社会、なんて日本の特徴みたいに考えてましたけど、世界中どこでもあることなんでしょうね。感情面から表現すれば「制裁」や「疎外」となりますが、異質なものが混じることができないのは当然かもしれない。そして進歩は常にそういうところから始まるのでしょう。
…それはそうと、私たちは現代なりの二重思考を身につけようと奮闘し、折々それに「成功」します。だから、ラストのウィンストンの姿が心につきささります。

そして「ニュースピーク」。これは思考の道具である言葉の数を減らすことで、概念そのものをコントロールし、思考の幅を狭める人工言語という設定で出てきます。付録としてていねいな解説がついていて、文法的にも単純化されているので、正直「こういう英語なら覚えやすいのに」って感じです。(笑)

冗談はともかく…
「その認識を超えて追求するために必要な語が存在しな」い。(p.471・『付録・ニュースピークの諸原理』)
というのは、日常的に、痛切に感じます。ですます調に翻訳できないことってありますよね。言葉って不便です。一度に一つずつ、順を追ってしか表現できないし、 女言葉では表現できないニュアンスがあり、男言葉でも同様に表現できないニュアンスがある。でも女性の立場から言うと、その違いは端的に権力のありかを示しています。どうしようもなく。

人とぶつかったとき、「失礼」と帽子を持ち上げて「紳士的に」謝ってみたいものだと思いますよ(笑)しかし、女性が(どんなに年配であっても)「紳士的な」態度をとる、というときに使える言葉はありません。この文化の中では、女性に許される感情表現は、男性と比べて少々卑屈です。それが文化全体に「自然に」染み渡っています。言葉で精神をコントロールできるという、見事な例です。 逆に言えば、日本語が「ですます調」しかなかったら、酔っ払いの取っ組み合いの喧嘩は少し減るような気がします(笑)。…道具に善悪はないんですよね。使われ方です。
小説は答えを用意しません。こういった「極北」を描くことによって、露わそうとしているものはなんだろう?…そう考えさせてくれるところが、この作品の価値だと思います。

「人は愛されるより理解されることを望むものなのだろうか」(p.390)…見出しに書きましたこれは、主人公のウィンストンが、恋人のジュリアと、自分を追及し責めさいなむ人物(ネタバレになるので名前は伏せますね)を比べて独白する言葉です。じつは今回再読して、先に書きました権力構造うんぬんの目立つテーマより、強烈に印象づけられた部分なんです…間違いなくそうだから。ウィンストンとジュリアをつなぐのは「愛」であり(恋人に対するものであれ、肉親に対するものであれ、情愛でくくれるものは同じでしょう)、ウィンストンとその追及者を奇妙にもつなぐのは「理解」。ある状況では、理解は愛に勝る。これは皮肉ではなく真理。大量に供給される、恋愛至上主義のエンタメ作品、歌謡曲、などなど…は、この真理から目をそむけさせます。陰謀を勘ぐりたくなるほどです(笑)。

感情が苦しむのは、理解に対する飢えによってではないだろうか。それが愛に対する欲求と故意にすりかえられているのではないだろうか…。というか、「愛」には当然「理解」が含まれているはずだ、と誤解させられてることも多いかも。自分の他者の対する「愛」の中身を冷静に区分けすれば、けっこうそうでもないことが多いのはわかるのに。それで失望したりするんですから、なんとも…。(^ ^;)
…ちょっと思ったんですけど、JUNEの範疇にはこの「理解>愛」の概念が自然に含まれてますね。…だから、恋愛より強烈なつながり、というニュアンスが可能なのだと思います。男女の「いわゆる愛」でそれは描けない。(できなくはないけれど、「男女の愛」のフィクションにそういうものは期待されないでしょう。需要がないとみなされれば、市場(しじょう)には出ないのが資本主義社会ですから、そういう意味で「描けない」。もちろん世の中の変化につれて変わるでしょうが…)恋愛の見立てに特化した少女マンガ風BLでも、これを描くのはちょっと無理そう。JUNEとBLという言葉を使い分けなきゃいけないな、と思うのは、こんなときです。(笑)…ウィンストンとこの追及者は、そういう意味で「JUNEな」色気のある設定ですが、いわゆる同性愛ではまったくない。むしろ、もしその要素があからさまに持ち込まれたら壊れてしまう。そういうところで成立しているニュアンス…奥が深いです、JUNE。(笑)

愛ある理解、理解ある愛、ちょっとは理解する気がある愛(笑)…と、目盛りは無限に打てるので、そう単純に分けられません。でもこの対比を意識すると、ラスト一行に書かれた言葉がとても意味深です。いろいろ解釈しがいのあるところですが、ここではネタバレできませんので自粛しますネ。
…サテ、これを再読したのは、ピーター・カッシングが昔BBCのドラマ化でウィンストンを演じた、と知ったからなのですが、前にも書きましたとおり、ずばり1984年に公開されたジョン・ハート主演映画のほうに馴染んでおります。

…で、それはDVDが出ていないのですが、テレビ放映時の録画ビデオを見つけました!民放の吹き替え版ですが、今ではかえって貴重かも♪冒頭だけ見返したのですが、プリンセス・プリンセスが「カセットテープ」のCMに出てたりして、泣けます(笑)。CMほんとにありがたくて、録ったのも1989年末くらいだと見当がつきました。90年1月発売のサザンの新譜のCMがあったのと、ウイスキーのCMに「1989年秋…」とナレーションが入ってたのです。しかも城達也さんの声で!(涙)
いやー、VHSも捨てないでとっておくもんですね!しかも標準で録ってました(笑)。「あの役」はリチャード・バートンだったんですね。うわ、ぴったりだ!音楽はユーリズミックス。…公開時は話題になったでしょうね。洋楽疎いのであんまり覚えていませんが(笑)。さっそく見てみようかな、と思ったのですが、先にYoutubeにあがっている、BBCのモノクロドラマのほうを拝見しようかな、と迷ってます。



追記・「Youtubeにあがってるモノクロドラマ」がこちらです。(埋め込みできなくなっちゃっているのでリンクで)

1984 - BBC 1954 with Peter Cushing part 1

分割全編アップされていて、こちらが一つ目。とてもおすすめです。よかったらお時間のあるときにでも。ピーター・カッシング迫真の演技がすばらしいですが、なんとこれ、生放送ドラマだったそうです。なので、たぶん特殊メイクをしていると思われる時間、姿を見せません。(笑)
共演は、のちにワトスン役でカッシングのホームズと再共演するアンドレ・モレル。そう考えるとまた別の意味で萌えたりします。スイマセン(^^;))