イベント参加予定

【イベント参加予定】2024/5/19 文学フリマ東京38 / 2024/5/26 COMITIA 148

2022/04/25

違和感とヒントと:「プーチンは誤った」と「平和を煽る」(ただの日記)


昨年おそるおそる剪定した牡丹。(雨の前に撮影)
小ぶりながらつぼみが8つもつきました。

見聞きした言葉のメモや、そこから思った戯れ言などとりとめなく……。
(これまでもそうですが、「ただの日記」は独り言に近く、文体が「ですます」になっていません。いつもとトーンが違うのでご了承くださいマセ)

*       *       *

まずは昨日の新聞記事から。

"プーチン氏は戦争ではなく、社会主義という共通体験を持つウクライナやベラルーシ、カザフスタンやジョージアなど旧ソ連圏諸国と手を携えて、欧米型の新自由主義に代わる「新たな普遍的価値」を示すことを目指すべきだった。"
朝日新聞「大国のはざま、東欧「小国」の苦難 南塚信吾・千葉大名誉教授に聞く」より

まさに。ウクライナ危機がニュース番組のメインテーマになる前は、資本主義の行き詰まりがさかんに取りざたされていた。いろいろな知恵を出し合うことが必要な時だ。

「プーチンは判断を誤った」と連日の報道でもさかんに言い立てている。反射的に、日本がかつて「判断を誤った」ことを思い出した。同じ轍を踏むな、という呼びかけもあり得るはずだ。そうするためには、もちろん過去の自国の「判断の誤り」を認めなくてはならない。それが簡単なことでないのは、歴史を見たり、何より自分自身の過去の失敗に置き換えて自分がどう感じるかを考えればわかる。けれど、そういう過去を認められる懐の深さや精神の強さは開発できないものだろうか。進化の方向として。

人間は「いつか」「どこかで」「必ず」誤る。「邪悪な面」も間違いなく持っている。それは本当だと思う。それは特定の人々が生まれつきそうなのではなくて、誰でも環境によって、そういう面を引き出されやすくなることはあり得ると思う。反対もある。環境によって、より理想主義的な側面が引き出されやすくなることが。

それをリアリズムとして受け止めた上で、「そういう欠陥を持った人類」が全体として「より理想的な形で」(これは個人的な望み)生きつづけていく方法を見つけて、実践しなくてはならない。それが出来なければ、私たちは滅びるのだろうと確信をもって思う。こんな人類は滅びた方がいいなどと言うより、良い方に変えていけると思いたい。

相手を「敵」とみなし、孤立させ、それに「勝つ」という「考え方の枠組み」は、病巣は切り捨てればいいという西洋医学の思考にどこか似て見える。
全体としてとらえ、調子を整えて望ましい方向へ持っていくという「考え方の枠組み」(それが短絡的に東洋医学的と言っていいかどうかはわからないけれど)、とにかくそういう発想が必要なんだろう。

これは個人についても同じだと感じる。人間には欠陥がある。ある人は暴力性、思慮のなさ、ある人は臆病さ、過剰な繊細さ、etc.。
人類全体を一つの生命体と考えたら、どういう方向に進化するのが望ましいのか。

戦争レベルの争いを減らすために必要なのは、まずはすべての人が経済的に救われることだろうな、という実感。不公平をなくすこと。言い古されたことじゃないか。

今回の西側の反省として、ソ連解体後にロシアを取り込んでこなかったことが挙げられている。その意味では、対処するべき問題は西側にこそある。わかりやすいところでは、先日ジャック・アタリが指摘していた「アメリカは常に敵を必要としている」ということ。これはアメリカばかりでなく、いろんなところで、いろんなレベルで起きていることだとも思う。それを少しずつでも改善しない限り、今回の問題が終わった後も、同じ事が続くだろうことは素人の自分でも想像がつく。民主主義にも未解決の問題はたくさんあるのだし、自分たちの中の問題、時代遅れのパラダイム、それを認め、直面し、対処しなくてはならない。時間がかかっても。

加害行為を防ぐこと、止めること。被害者となった人に手を差しのべるのは当然だけれど、それでは遅い。(何を待っているんだ?)
対策が必要なのは加害者、というより加害行為そのものだ。それを止めること、防ぐことこそが課題。
加害行為は誰もがなし得る。今回でいえば、行為の主体が何人かが問題なのではなく、加害行為そのものこそが防ぐべきターゲットであるはずだ。

国連のグテーレス事務総長が、ロシア・ウクライナを訪問するという。国連も問題があることについては、最近少しずつ情報に触れるようになっているけれど、ここでは期待したい。人類のなすべき方向に、少しでも近いように見えるから。少なくとも「より強力な武器を」という方向でだけ後押しをして、戦いをエスカレートさせることよりは。

この方向(戦闘でない方法)に、知恵を絞らなくてはならない。アメリカはこの点では当てに出来ないように見えるのがやりきれない。以前テレビに出ていた駐日ロシア大使が、アメリカが侵攻した時に世界は同じ反応をしただろうか、ダブルスタンダードだ、と訴えていたが、その点についてはうなずけた。そしてアメリカが国際刑事裁判所の締約国ではないというのも最近知った。自分の国が訴えられると困るから、らしい。正直ショックだったけれど、そういえば、アメリカは昔からそういうところで動いているのだなぁ。日本はどうだろう。「欧米諸国と歩調を合わせて」の範囲でしかないのだろうか。もちろんそれだけでも意味はあるのだけど。

理性を呼び覚ますこと。理性を保ちやすいのはどんな状態の時か、自分のことを考えればわかる。危険や空腹の中では難しい。ちょっと寝不足なだけでも変わってしまう。
その理性を呼び覚ませる状態を作ること。相手にもその環境を与えること。もちろん絶対的に相容れないこともある。だがそれさえ、何かコツを見落としているだけなのかもしれない。あるいは覚悟が足りないだけかも。

第三者がなしうること。遠くにいるからなしうること。
距離をとること。(個人間の問題はこの手を使えるが、隣国から引っ越すことはできない)
公正であること。成長を促すこと。

先週の『報道1930』では、興味があったロシア正教について特集されていた。その中でお笑い芸人のパックンが「平和を煽る」という表現をした(宗教が本来なすべきこととして)。こういう言葉は好きだ。当事者でないからこそ言えることだと思うし、するべきことだと思う。それが具体的にどういうことを指すかが、私にはまだわからないけれど。

それと同時に、別の違和感もいくつか、じつはこの危機のへ報道が始まってからずっと感じてきた。

同じように痛ましく、人に対して許されない状況が、他の地域の人にさんざん起こってきたにも関わらず、その被害が、「見た目がヨーロッパの白人」(言語や文化が主流の西欧派とは違うとしても)である人々に及んだとたんに、報道がそれ一色になったように感じている。ここにもダブルスタンダードを感じる。非ヨーロッパ圏の同様の問題に関して、被害を受けた人々が住む国の国旗のカラーを日本で大々的に掲げたり、一般の人が国歌を歌って見せたりしただろうか? この手の「支持の表明」には、なんともいえない違和感を別の意味でも感じた。もちろん無関心よりずっとずっとましなことなのは間違いないのだ。けれど、まるで流行のファッションに身を包もうとするかのような、地に足のつかない心地悪さを感じてしまった。寄付や祈りに対してはそうは感じないのだが、なぜだろう。そんなヘソの曲がったことを感じている自分自身に問題があるのだ、とは思いつつも、それが正直な気持ち。今の自分の限界なのか。

自分自身、被害を受ける人々が「見た目がヨーロッパの白人」になったとたんに、ショックの受け方が大きくなった。単純にテレビのニュースの影響を受けたとも言える。しかしもっと肌の色が濃い人々、もっと貧しい身なりをしている人々が、廃墟のような街を歩いていたり、「難民」という立場に立たされているのは「漫然と眺めていられた」。もっといえば「目にすることに慣れていた」。なんてことだろう。こんなところにも、自分の思考回路が抱えている、課題の一部が表れている。

*       *       *


今朝の雨上がりの牡丹の葉。水滴が美しかった。


2022/04/17

追悼・藤子不二雄Ⓐ先生:『二人で少年漫画ばかり描いてきた』のことなど

先日藤子不二雄Ⓐ先生の訃報をネットで知り、愛読書を掘り出しました。Ⓐ先生の――正確にはお二人がF先生・Ⓐ先生に分かれる前に「藤子不二雄」名で出された本で、タイトルは『二人で少年漫画ばかり描いてきた 戦後児童漫画私史』。漫画でなくエッセイです。いろんなところでご紹介したことがありますが、その他のものと合わせて、改めて思い出など書きたいと思います。


大好きな『二人で少年漫画ばかり描いてきた』ほか、
藤子Ⓐ先生のご本と映画『トキワ荘の青春』(VHS(^^;))

『二人で……』が自分のなかで「Ⓐ先生の本」という印象になっているのは、そのほとんどをⒶ先生が書いているからです。そのへんの事情は以下の通り。各章の冒頭にあるF先生の「ひと言」から引きます。


「藤子不二雄は二人いるのです。一人は安孫子といいます。僕は藤本です。僕は寡黙です。安孫子は、おしゃべりというと言葉が悪いけれど、サービス精神に富んだ社交的性格です。よくしたものです。(中略)
藤子不二雄を、二人の人間の組み合わせから成り立つ有機体と考えれば、安孫子素雄は、藤子の目であり、耳であり、特に口なのです。その口が今度『戦後児童漫画私史』を語り始めました。それだけならいいのですが、この寡黙な僕にまで語れというのです。じゃあ前書きか、後書きを書こうといったのですが、結局、各章ごとに前書きだけを引受けることになりました。前書きと本文の字数の比は、普段の口数の比に等しいとお考え下さい。」


もともと古書で手に入れたのですが、かれこれ40年くらい、折にふれ、取り出してはぺらぺらと拾い読みする本であり続けています。内容は、藤子先生お二人の出会いから、アニメ制作会社スタジオゼロの創立・発展的解散のあたりまで。ところどころに挿入される当時の日記の、「ツカレル」などのカタカナ遣い(影響を受けている気が)とか、若いのに「小生」と書く文体(当時はありふれてたかもですが)がこそばゆくも愛おしくて、日記文学的な楽しみ方をしている一冊。「時代を体感する」ことができて大好きです。


なかでも一番共感しやすかったのは、やはりトキワ荘のあたりです。でも、その中でも特に引き込まれるのが、初めて白黒テレビを買って「ワーッ、本当に映った!」と狂喜するところだったり、自分の経験とはかけ離れたことなんですよね。なぜでしょう。昔から自分でも不思議です。


もう一つ文庫で持っている先生のエッセイが、『妻たおれ 夫オロオロ日記』。奥様が脳出血で入院なさった時の、これははっきりと「日記文学」と言える本です。その文体が『二人で……』にある日記とまったく変わらないことや、周りの方から「くよくよしても仕方ないからゴルフにでも行ってきなさい」とか言われてけっこうゴルフに行ってたり……そこに漂う「緩さ」というか、「甘やかされ方」というか、「頼りにならなさ」(?)というか……そのへんに、なぜかかえって安心して読める感じがあって、これも好きな一冊です。奥様を「和代氏」と「氏」付きで呼ぶ習慣も、なんだか微笑ましいです。


『二人で……』に比べると出版されたのもだいぶ後年ですし、あまり読み返していなかったのですが、今回掘り出して夜中に読み返したら止まらなくなりました。昨年自分も似た経験(母の脳梗塞と入院)があったので、その時にこの本を思い出して読んでいたら、少しは気が楽になっていたかもしれないなあ……なんて思いながら。(その時は別のこともいろいろあって――数々の家電の故障、我が家で初めてのネズミの出没etc.、思い返すとコント顔負けのトラブル続出で――この本を思い出す余裕はなかったのですが。…あ、母はおかげさまで庭いじりができるまでに回復しております!)


今回写真を撮ろうと思っていろいろ掘り出したのですが、 手持ちのⒶ先生のエッセイ本では一番新しいⒶの人生が出てきませんでした。発売時のサイン会(なんてものに行った記憶は後にも先にもこれくらい)で握手をしていただいた、思い出深い本なのです。『二人で……』が大好きでずっと読んでいます!とお伝えしたところ、にこやかにうなずかれて「そうなの~……」と応じてくださったのですが、自分のテンパり具合が恥ずかしかったのを覚えています。


『二人で……』が何度目かのマイブームになっていた頃、他の「トキワ荘もの」にもいろいろ手を出しました。その中に映画のトキワ荘の青春があります。これはずいぶん見直していないので、この機会に再見しようかと思……っていたら、訃報の少しあとにBSプレミアムで放映していましたね。デジタルリマスターだったらしいので録画しておけばよかったと後悔しきり。手元にあるのはVHSなので……。(でもこういうことがあるから、VHSプレイヤーも処分できないのです!)


…漫画ではF先生の作品のほうが好きで、Ⓐ先生の漫画作品で持っているのはトキワ荘関連のものだけだと思います。だから「漫画家さんとしてのⒶ先生」のファン面(ヅラ)はできないかもしれません。でも上記の「日記」から見えるお人柄に、勝手に親近感を覚えてきた気がします。焦りや罪悪感などナイーブな部分、一方で何かを夢見る時のふわふわした気分、自分に都合よく考えて自分で突っ込みを入れるような感覚も書かれていて、それはすごく自分を重ねることができるものでした。これからも折々読み返すと思います。


報道によると、『まんが道』系の次の作品を構想なさっていたそうですね。読めなくて本当に残念です。月並みですが、ぜひ天国で作品を完成していただいて、私たちがあちらへ行った時――あるいは科学が発達して、霊界通信(?)的なモノがアタリマエな世の中が来たら――読むことができたらと思います。


心からご冥福をお祈りいたします。

2022/04/09

違和感とヒントと:ETV特集『ウクライナ侵攻が変える世界 私たちは何を目撃しているのか』

 いわゆる「ウクライナ危機」が始まって間もない頃から、強烈に、でも抽象的に感じていた違和感があります。小学生みたいなことを言いますが、 

「戦争を停めてくれ」と言っている人に対して、何かを「供与」して「がんばってもっと戦え」というのは何か違う気がする

ということです。でも「じゃあ他の何だっていうの?」と自問すると答えが出てきません。

 

毎日ニュースや情報に接するなかで、この違和感をもっとはっきりした形で考えるヒントを探しているので、見つけたものなど書き留めていこうと思います。

…で、ほんとは別のものから書いていたのですが、録画していた番組をようやく見たらすごくヒントにあふれていて、見逃し配信が今日まで(!)ということなので取り急ぎご紹介します。(見逃し配信終了後もNHKオンデマンドで見られるようです。出演者も豪華ですし、できれば1チャンのほうで見やすい時間に再放送があるといいな)

 

ETV特集
「ウクライナ侵攻が変える世界 私たちは何を目撃しているのか 海外の知性に聞く」

公式ページ https://www.nhk.jp/p/etv21c/ts/M2ZWLQ6RQP/episode/te/2Z83LY76JW/

 

次のお三方のインタビューで構成されています。

・スベトラーナ・アレクシエービッチ
(ノーベル賞作家。『戦争は女の顔をしていない』など)

・ジャック・アタリ
(経済学者・思想家・作家。フランス大統領の政策顧問、欧州復興開発銀行総裁などを歴任)

・イアン・ブレマー
(国際政治学者。政治リスクを専門とするコンサルティング会社を経営)

 

インタビュアーはNHKの道傳愛子さん。コロナのパンデミックをテーマにした同様の番組でも司会を務めてらして、いつもながら、語り口と話の進め方に安定感を感じます。アタリさんとブレマーさんはパンデミック番組のほうでも出てらっしゃいましたね。

見ながらポメラでたくさんメモを取ってしまったので、一部を載せておきます。自分のためのメモなので、漫然としたメモと字幕を書き写した箇所(カギカッコ部分)が入り混じっています。読みにくいかもですがご容赦を。


*       *       *

 

◆スベトラーナ・アレクシエービッチさん

 (三人の中では一番「当事者」に近い立場の方であり、体調もよくないとのことで、他のお二人が学者さん然としているのに比べてとても辛そうなのが印象的でした)

テレビと冷蔵庫の戦い

「経済制裁でロシアの生活が悪化すれば
『テレビと冷蔵庫の戦い』が始まります。
テレビが従来どおりにロシア国民に影響力を持つのは 
冷蔵庫がいっぱいの時だけなのです

冷蔵庫が空になれば人々は考え 起きていることに対して
何らかの反応をするようになると思います」

 

真実を書くには犠牲が伴う 故郷では本をかけず投獄される
(ベラルーシに住んでいた方ですが、現在は病気療養のためドイツにおられます)

自分の気力・体力 自分ができることを冷静にとらえるべき

 

勝たなくてはならない

救ってくれるのは愛だけ 憎しみでは救われない

法に基づいて裁かなくてはならない

そのためには勝たなくてはならない

 

「いま経験していることは本当につらいことです
この経験は血まみれです
でもここから私たちは多くを学び取るでしょう
私たちは いままでとは別の人間になるのです」

 

 

◆ジャック・アタリさん

 (ソ連崩壊で冷戦は終わっていなかった、これが冷戦の最後の残骸だというアタリさん。ヒントがたくさんありました。アメリカについての分析は、ぼんやり感じていた違和感をはっきりさせてくれました。)


Q: 「蛇の結び目」(今の状況)をほどくには?)

ネガティブにならない 悲観的になりすぎない 弱気にならないこと
どんな交渉のチャンスも逃さないこと
ウクライナやロシアなどの国で抵抗する勇気ある人たちを支援すること
この状況下でリスクを負う勇敢なロシア人を歓迎すること
ロシアや中国の人たちの気持ちが変わるよう出来る限りのことをすること
私たちは敵ではないと気づかせ民主主義のほうがよいと思ってもらえるようにすること

 

アメリカについて

アメリカという国は常に敵を必要としている

「私の考えでは当初中国は敵国という存在からはほど遠く 
アメリカの敵になり得なかった
それでアメリカは危機に陥った 
少なくとも
軍産複合体は危機に陥りました
議会から軍事予算を得るためには脅威がなくてはなりません
そこでロシアの存在が必要なのです
軍産複合体とクレムリンの過激派の中に 
利害関係が一致する人たちがいるのです

 

ブログリンク "Welcome to the Russians"(ジャック・アタリ公式サイト[仏/英])
番組中で紹介されていた投稿です。

いま起こっているのは前世紀からの 冷戦の最後の残骸なのだ

私たちは最悪の事態を避けるために冷静さを保つべきだ

 

いま私たちが見ているのは 冷戦の最後の出来事だと思います
というのも ポスト冷戦など 実際にはなかったのです
双方とも6000発もの核兵器を保有しています
そしてロシアは西側と同盟を結んだことがありません
冷戦は終わることがなかったのです
これは冷戦のクライマックスのひとつです
冷戦の終結はもう少し先なのかもしれません」

 

Q:冷戦が終わっていないとしたら 私たちは何に備えればいいのでしょうか?)

 

「今回の悲劇を通して 人々が理解を深めることで
冷戦が終わりに向かうことを期待すべきです
冷戦では双方が負けて得るものはない 失うものばかりです
そして現代社会において それは大惨事を生みかねません
ですから最善のシナリオは 今回の危機で人々が
今度こそ冷戦を終わらせなくてはと気付くことです
そのためには西側でもロシアでもすべての人の行動の改革が必要です

 

「利己的な利他主義」
(この用語はパンデミック番組でも言われていた、アタリさんの持論です)

「西側諸国にとってロシアに民主化を働きかけるのは 自分のためにもなる
そしてロシア人にとって民主主義に加わることは 自分たちの利益にもなるのです」

 

ロシアのオーケストラや音楽をボイコットするのは馬鹿げています
もっと歓迎をして上演をして 彼らを理解すべきです
もちろんクレムリンがバックにいる音楽家のことではありません
それ以外の音楽や演劇や文学を もっと深く知るべきなのです
両手を広げ 彼らと一緒に何かをするのです」

 

 

◆イアン・ブレマーさん

Q:「私たちは 特に西側諸国はこうした20世紀型の野蛮な戦争を防げなかったことを認めなければなりません 違うでしょうか?」)

 

「そうですね というより もっとひどいと言えるでしょう
ロシアのあらゆる行動を目撃しながら 
西側諸国は概して消極的な態度を取りました」

 

(「ブダペスト覚え書き」で アメリカ イギリス ロシアは核放棄とひきかえにウクライナの領土保全を約束した)

 

アメリカが学んでいないこと

「まず6000発の核弾頭という 
存亡に関わる脅威を消滅する方法を見い出していません
これらはアメリカにもロシアにも
一発たりとも使用させてはならないものです
この30年間 世界は核の危機が再び起きることは
基本的にないだろうと考えてきました
ずっとそう ふるまってきました 
しかし今やそんな時代ではありません
その可能性はあるのです」

 

*       *       *

 

ほんの一部ですが概要メモでした。 

インタビューの最後に、アレクシエービッチさんは
「真実を知ろうという気持ちに感謝します」
アタリさんは
「私が話したことをどうぞ役立ててください」
と結んでいました。


 もはや「どっちに味方するか」というレベルでは済まないんだ、とはボンヤリ感じているものの、どう考えたらいいのか、どう理解したらいいのか、茫然として金縛りになっているような身なのですが、学ぶための糸口がありました。


もちろん今自分は日常生活を普通に営んでいるわけですが、抽象的には個人レベルでもこの問題と同じ構造があるのをやりきれなく感じます。その意味でも他人事ではありません。もちろん「核の脅威」という旧世紀の単語だと思っていたものが、今現在自分たちに降りかかっているという意味でも。本当に恐ろしい。

 

こういうことを解決できる人類になろう、という意志が必要なんだと思います。メンタルからそっくり変わらなくてはならないと。自分は腰抜けだし視野も狭いし、今は「その範囲の外」の考え方が想像できません。まったく次元の違う発想が必要なんだろうな、とは感じるのですが。それはどんなものなんだろう。毎日ヒントを探しています。