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2021/02/18

回顧の対象になった80年代/『YOU』「100回記念 気分はもう21世紀人」感想

昔NHKの教育テレビでやっていた『YOU』っていう番組の再放送が日曜日にありまして、すごく懐かしかったので感想書きます。

公式ページ:
Eテレプレーバック YOU 「特集 100回記念 気分はもう21世紀人」
(2/21までNHKプラスで見逃し配信やってます☆)

『YOU』は土曜の深夜にやっていた若者(っていう言葉はなんか苦手なんですが)向け番組で、司会は糸井重里さん。おおぜいのワカモノが司会とゲストを囲む中で、いろんなテーマでトークをする番組でした。OP、ED曲は坂本龍一さん。いまだに無意識に脳内で再生されることがあります。今ググったら放送は1982~87ということで、がっつりターゲット世代ですね。よく見ていた記憶があって、細かいことは覚えてないんですけど好きでした。OPの絵が大友克洋さんだったのは、放送を見て思い出しました! そうそうこれ! 

正確には、懐かしさと同時にある種の「面映ゆさ」みたいなものも感じます。あの雰囲気……糸井さんのしゃべり方とかかなあ……そのへんから醸し出されるんですね。当時かわいかったですね、糸井さん。生意気風なしゃべり方も含めて。ああいうしゃべり方をする友達はけっこういました。(笑)見ていると、自分や当時の周囲の雰囲気、仲間が肯定していたもの、今も自分のどこかに痕跡を残している青臭い価値観……もろもろが噴出してきます。だから「面映ゆさ」もあるのかな。そしてあの番組の雰囲気、じつは自分にはコミケの雰囲気にも通じるものがあるんです。どこかこしょばゆいけど安心するような。(笑)

今回放送されたのは100回記念番組とのことで、坂本龍一さんのラジオ番組とコラボした変形版でした。ゲストも多くて豪華。原田知世ちゃんはあの頃の髪型(そして『OUT』でゆうきまさみさんが描いてたあの姿の似顔絵)で覚えているので、むしろ今のほうが仮装みたいに感じます。(いや、それ他の人にも感じるぞ? あの頃から頭の中身が変わってないのか私(笑))素子姫(作家の新井素子さん)は現在のコメント映像もあって、話し方が変わっていないことに妙な感動を覚えました。(十代の頃読んだきりでした……)

今『COOL JAPAN』の司会をしている鴻上尚史さんもゲストの一人で出ていて、まだ25歳と言っててうひゃーっ☆となりました。でも今この方が番組でやってるしゃべりの雰囲気が、スタジオの構成も似ているせいか、『YOU』の雰囲気をちょっぴり継承してるのが面白い。(ちなみに「100回記念」の中で糸井さんは鴻上さんに注目していると言ってるんですけど、下の名前が読めてなかった(笑))後半は(ラジオのほうのゲストだった)中沢新一さんも加わったりして、総じて当時の「文化系」にとってのアイドル的な方々が登場していた感じです。


さて、いろんな話題が出てきたんですけど……これが放送された当時、1984年時点での「行き詰まり」「新しいものが出てこない」みたいなお話が出ていて、「新しい」って自分にとってなんだろう? と考えました。そこからイモヅル式に思考が横跳びしていっちゃったので、ここからは見た後にごちゃごちゃ考えたことを流し打ちした文章を載せます。番組の感想ではなく、それが引き金になってあてどなく転がった思考です。(正確には録画視聴していたのを時間切れで「もうちょっと」ってところで切り上げた時。その後最後まで見ました)「ですます調」に直す時間もないので(つまり見逃し配信やってるうちにアップしたいので)、キャラが変わって見えますがご了承くださいませ。とりあえず未整理そのままの、自分の思い付きの記録として残します。

*       *       *

見ていて思ったんだけど、 新しいと思うのはその前の「古いもの」を体験しているからなんだよね。その体験なくいきなりそれに接したら、「古い/新しい」という基準では「新しい」とは思わない。むしろ自分が生まれる前のものでも、「発見」すれば、自分にとって肯定的な新鮮さがあれば、「新しい」と表現するだろうと思う。古典芸能も東映時代劇も、そういう意味で自分には「新しかった」し、80年代はそういう言い方が「許される」時代だったと思う。「自分にとっては新しい」ということを、堂々と言える空気があった。今はもう少し息苦しい感じがする。「自分にとっては新しい」に対して、どこからともなくやってきて「そんなことも知らなかったのか」とフタをする空気が。当時は逆に、動脈硬化を突破する力として「初めての人」の視点を肯定する空気があったと思う。思えば充分独自の文化だね。

その「(自分にとって)新しい発見」であるレトロと、自分が体験した時代を回顧するレトロはまったく別物だ。当時自分が見た歌舞伎は新しいレトロで、今私が見る『YOU』は回顧としてのレトロだ。それでいくと、より若い世代が80年代の風俗を「発見」して、「新しいものとしてのレトロ」として消化することも出てくるんだろう。80年代(自分が馴染んだ時代)が、そういう地位を獲得しうるとは考えたことがなかった。


「60年代」「70年代」は、特有の文化を持っているものとして、それを体験している人たちには特権があるんだろうな、くらいの妙な羨望(?)めいた感覚があった。それくらい堂々として見えたし。でも今こうして見ると、単にその当時購買力がある世代が青春期を過ごした時代で、その風俗を掘り起こすことが広く懐かしい感覚を呼び起こす=商売になる、というだけだったのかもしれない。それが今80年代に来ていると。まあそれを言えば、40年代文化も50年代文化もあるんだけど。

でも、たとえば欧米の1920年代が特に特色を主張できるみたいな、前後との違いが鮮烈な時代はあると思う。1920年代に関しては、もうはっきりと第一次・第二次世界大戦に挟まれて前後との対照はクッキリ。日本の60-70年代(高度経済成長期ともいえるかな?)も、たぶんその前――戦後文化との対照がくっきりしているせいで突出して見えるんだろうな。

今の目線で見れば、80年代はそれ以前より柔らかく、あいまいさを持つようになった時代だったように見える。「モラトリアム」とか「なんとなく」とかの空気。その差は戦後→60年代ほどクッキリとはしていないけど。もちろん当時は「いきなりそれ」を体験している世代だったから、それはただの「標準」であり、そうと意識することはなかったけれど。


番組の中で、パソコンが個人に普及することや、「好きな番組だけを引っ張ってきて見るデータバンク」という表現で今のネットフリックスやYouTubeみたいなものが予見されている。驚くのはそれが予見できたことではなく、その変化がものすごく早かったことだ。当時たぶん自分は(もしかしたら他の人も)その変化はもっとずっと先の「SFな未来」のことだと思っていたはずだ。(この番組はたぶんリアルタイムに見ているはずだけど、詳細な内容は覚えていない)いや、それを言ったら、自分が中高年になる未来はそれこそ想像できないくらい「ずっと先」だと思っていた。


そして今、スマホやネット利用から起こる脳の機能低下が問題になっている。これはさすがに当時誰も予想していなかったと思う。あるいは予想した人がいたのかもしれないけれど、たとえあっても「進歩」を肯定的に語る言葉と行動の洪水の中でかき消されただろうと思う。単純に新しいツールを使うことがかっこいいことでもあったし、そういう人たちが知的に優位に立っているように見上げる空気もあった。

それがこれから単純に逆転するとは思わないが、当時マスコミとは別の発信に意味があったのと同じように、今、誰もが発信する洪水の中で情報を「適切に遮断する」技術に意味が出てきているんだろうと思う。これは逆戻りという意味ではなく。個人でできることだけど、たぶんその「機能」を実装した「商品」という形で現れるんだろう。世の中が「従来型の資本主義」である限りは。だけど、もし今回のコロナの災厄が「もっと未来のことだと思っていた」経済システムの変化をずっとずっと早く到来させるなら、生きてるうちにそれを拝むことになるかもしれない。そんなことを思ったし、それを望んでもいる。


じつはまだ途中までしか見ていない。最後に今の視点での総括のようなコーナーがあると思うから、それとかぶっていたり、あるいはそれを否定するような言葉になっていたらご容赦を。今「自分はこう考えている」とはっきり表現することを再訓練しているところなので。(Twitterで話題の自粛やシュガーコーティングをする妙な癖がついてしまった☆)最近、昔の自分の文章を読み直す機会があって、それ(Twitter)以前に書いていた文章がえらく「面白く」感じられるんだけど、それはそういうフィルターを通してないからなんだよね。今回、それと呼応するアレコレを思い出す番組を見られたことは、いろいろ思うところがある。

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2021/02/13

「覚悟には、果てはありませぬ」:『麒麟がくる』最終回感想

 録画してあった『麒麟がくる』最終回『本能寺の変』、木曜日にやっと視聴しました。なるほどな、こういう終わり方かー……! 思ったことをいろいろ書きます。

光秀というと、じつは昔好きだった歌舞伎役者さんが『時今桔梗旗揚』(ときはいまききょうのはたあげ)という演目で光秀をなさいまして、その時に「光秀=かっこいい悲運の人」のイメージが強烈に刷り込まれてしまったんです。そしてもちろん三日天下というカワイソーなイメージ……ほぼすべての視聴者が結末を知っているであろう中で、どう終わらせるのか興味津々でした。

以前も書いたかもしれませんが、個人的には、歴史もののエイターテインメントは(シリアスなものであっても)史実をなぞるのが目的ではなく(もちろん最低限見ている側が違和感を感じない程度のリアリティはほしいですが)、そのモチーフを使って特定の情緒や考え方、価値観を表現するものだと思っています。だからどの学説を取るかという問題より、どういう感情を提示するんだろう、というほうが興味がありました。

ドラマ全体(まあ見た限りでですが)を通して言えば、正直かなり入り込みにくいところはあったんですが、今の鬱屈した世相の中で「希望のイメージ」を持たせる終わり方をした決断、脚本家さんの意志を感じました。ただ、そこを着地させるのが後述の通りイマイチ現実味を感じないオリキャラさんで、「あちゃ」とズッコケる感じもあったのは確かなので、もっとうまく着地できていれば、というのはすごくあります。伊呂波太夫の「あけちさまー」あたりからちょっと生暖かく見守るモードでした。(笑)最近の大河を見慣れてないので、こういうもんなのかな、と。

ただ、コンセプトは嫌いじゃない。麒麟には来てほしい、まだ終わってないぞ、という願いをつなげたい気持ちは私も共有できました。

さて、タイトルに引用したのは最終回に出てきた光秀の台詞です。

「覚悟には、果てはありませぬ」。

なんかいい台詞だなあと。これを唱えるとすっと腹が座る気がするので、パニクりそうなときに唱えたい。(笑)それはともかくこの台詞、ドラマでは使われなかった有名な「ときは今 あめが下しる 五月かな」の代わりに、決意を匂わせる台詞になっていました。お芝居(歌舞伎)だと愛宕山の歌会でこの歌を詠むんですが、ドラマの愛宕山は一人でしたね。

…じつは大河はあまり見ている方ではありません。きちんと見たタイトルを思い出すと、『黄金の日々』や『峠の群像』にさかのぼってしまいます。でも今年はキャラとして好きな光秀だし、演じる長谷川博己さんも好きなのでこれは見よう、と思ったんですが……なかなか毎回見ることはできなくて、結局きちんと見たのは最初と最後の4~5話ずつくらいでした。でも最終回前日にNHKが「これでもか」ってくらい番宣番組をやっていて(笑)、充分流れを追えました。

最後の数話を見始めたころから、「これは歌舞伎的だな」という印象を持ちました。前述の演目に似ているというのではなく(まったく似ていません❤(笑))、何を表現するのか、というあたりが。コロナのせいかもしれませんが、戦国武将ものなのに合戦シーンはほぼなくて(私が途中あまり見ていなかったせいもあるとは思いますが)、その前後のせりふ劇でキャラクターの心情のドラマを見せていました。テレビにしてはかなり抽象的なシーンもありましたし、極端な顔芝居は感情を拡大するクローズアップの見得、といった感じ。(これはちょっと違和感もあったけれど(笑))

顔芝居については、イマドキ特有の特徴が出てきつつあるのかな、とも思いました。今の映像コンテンツはインターネットで見られることも念頭に置かねばならないでしょう。小さい画面でもわかる表現、となると、ロングよりアップ、腹芸より台詞での説明、となるのは想像できます。

(このへんは画面のサイズ以前にテレビ的なわかりやすさという解釈もあります。好みではありませんが、リアルタイムの大衆エンタメとしてテレビ番組のお作法とされる場合もあるのかも。真っ暗な中で集中して見る映画と並べて論じたらかわいそうですね。でもそれを充分凌駕するテレビ番組だってあるのは確かです!)

…一方でテレビの画面は大きくなっているので、両方に対応する判断は難しいでしょうねぇ……。kindleでさえ、スマホ・タブレット・PC画面に対応することを考えると気が狂いそうですもん。(笑)

さて、だからテレビであることの限界は別にしてですが……個人的に入り込めなかった点について書きますと、理由の一つは駒ちゃんや伊呂波太夫さんといったオリジナルキャラが「便利すぎた」ことです。特に伊呂波太夫さん――旅芸人なのにお公家さんの姉貴分で、下々の生活も知ってて大金都合できて貴人でも武人でも対等に話せる超絶情報アクセス力……便利すぎる。お駒ちゃんもいきなり公方様とお友達になっちゃうしー。(^^;)

で、ヒジョーに申し訳ないのですが、彼女たちが出てくるとどこか失速する感じがあって、個人的には冷めてしまいました。女優さんたちに他意はございません。ゴメンナサイ。自分が知らないだけでじつはリアルな設定なのかもですが、自分なら「お芝居のリアリティとして」もう少しアクセス先を制限するなー、と思いました。

同じことを言わせる(=視聴者に「聞かせる」)のでも、別にキャラ同士が直接会っていなくてもいいシーンがけっこうあった気がします。例えば最終回に、伊呂波太夫が明智様に信長さんをやっつけてほしいみたいなことを言うんですが、別に旅芸人が直接それをお公家さんに言うシチュエーションでなくたっていい。独白でも効果は同じだし、しかも自然に見えるなーとか思いました。あまりに自由な彼女には、時代(信長)の犠牲になっている感じが出ないという問題もあります。身分の違う人を描き込んでいくなら、無理に頻繁にアクセスさせないで、別々の場所で同じ時代を見ているキャラクターたちを平行して描くのもありだなーと。このへんは逆説的に勉強になりました。あんまりキャラ同士を「つなげすぎる」と「安く」なっちゃうんですね。

オリキャラに限らず、全体に「安さ」を感じるところはあって――でもこれはないものねだりかもしれません。主人公が、昔の人なのに今の世相に合わせてやたら女性を大事にしてたり、とても「民主的」だったりという脚色は歴史ものではよくあって、たぶん今回も女性の活躍を増やすという目的なんだろうと思うんですが――うん、ここはちょっと違和感があったところです。これは他の表現でもポリティカル・コレクトネスが行き過ぎた場合に感じることで――話が長くなりそうなので、これは機会があったら改めて書きますね☆

ただ、当初受け入れがたかった信長さんの心理的な造形は、終盤になってむしろ見事だと思うようになりました。このドラマの中で一番、キャラクターとしてフィクション特有の一貫性とリアリティがありました。ああなるほど、こういう人物として描いたのか……と。「信長像」として好みかどうか、というのは別にして、キャラクターを作り上げるという意味でとても成功していたと思います。光秀との関係に「腐女子狙われてる?」てな感じもしたんですが(笑)……だって「二人で茶でも」ってああた。信長さん光秀になつきすぎ。かわいいし。子犬ちゃん……。

でもまあ、そのへん安くはあっても、「あの信長」のキャラクターとしては破綻していなかったのがお見事ではありました。一瞬、ベネディクト・カンバーバッチがやった舞台『フランケンシュタイン』の、フランケンシュタインとモンスターの構図が重なったりして。立場は逆だしいろいろ違うところはありますが――モンスターの残虐な奇行が、突き詰めると「愛されたかった」につながるところは似ている気がします。萌える構図なのになぜかそうは感じなかったですねえ、今回は……ええとね、ちょっとやりすぎなの。露骨すぎなの。としま腐女子にはさじ加減が大事なの。(笑)

逆に最後まで「作りもの感」が拭えなかったのが主人公かも……脇役のほうがイメージを先鋭化できるので、主役に比べると儲け役なのは常ですが、光秀さんはなぜか地面から数十センチ浮いている感じというか、二次元的に見えるというか、中身が真空に見えるというか……。

俳優さんは好きだし――(お顔がテッド・チャンさん系で❤ まあそれ言ったら似てる日本人はたくさんいらっしゃいますが(笑))、そういうことは言いたくないんですが。シーンごとの感情は充分表現されているのに、それがつながった流れがいまいちピンとこない。うん、それは正直なところでした。キャラが高潔すぎるのか……いや、高潔なキャラが必ずしもリアリティないわけではないので、「フィクションとしての」リアリティの仕掛けがうまく機能しなかったんじゃないかと。それはなぜか? というところを細かく考えていくと、これまた勉強になりそうです。(単純に自分が途中をすっ飛ばしてるから、という可能性もあります☆)

あ、気になってたこと。なぜ光秀さんに月代がないのか? 若い頃だけかと思ったら中年になってもないんですよね。ないほうがかっこよく見えるという判断? それともそういう史料がある? [追記:あとから画像ググってみたら歌舞伎のほうもないですね。同時代の信長さんとかはあるし光秀の肖像画もありそうなのであれっと思ったんですが――キャラとしてそういう伝統なのか? 機会があったら調べてみよう……]最近は前髪や襟足のボーボー部分が地毛っぽい時代劇を見かけますが、今の流行りなんでしょうか。あと、女性が何歳になっても若いまま(笑)――まあこれは様式美なのかもしれません。見慣れていないだけで。ただ、今回は女性に限らずみんな若いままだなーというのはありました。光秀も最後まで青年。近衛前久さんなんか少年だし。(顔芸がちょっとやりすぎ感ありましたが、中の人はたしか実物大ガンダムの中継に出ていたガンプラ好きの人だと思うので、ケチはつけたくない(笑))

というわけでまとまりませんが、スタートから俳優さんの交代やらコロナやらで大変だったと思います。コロナがなければもっと戦国武将ものらしい合戦シーンもあったんではないかしら。「めちゃくちゃブラックなとこに勤めることになってしまった真面目な人の苦悩」としても共感できる箇所はありましたし、信長との間の感情のもつれを複雑にしたのは面白かったです。……物陰から覗いてキーッとなってる信長さんは女子中学生みたいでちょっと笑えてしまいましたが、そういう人物として描いたんですよね。人間の行動の動機なんて武将でも案外そういうとこだったりするかもしれないね、なんて思ったり。(笑)久しぶりに大河を見た身からすると、「今はこういう感じなのね~」というのが一番大きかったかもです。でも日本史に興味が出て、後に書きますがいろいろ開拓したのは収穫でした。次の大河も主演がイケメンさんなので(笑)、気楽にトライしてみようかなーと思っています。まる。


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リンクなど

さて、少し前になりますが、時代考証を担当している小和田哲男さんがYouTubeで動画配信しているのを知りました。最終回を受けての動画はネタバレ回避で我慢していたので、見終わってすぐに視聴。そのあとはwikiで関連事項を読んだり、脚本の池端俊策さんのインタビューなど読んだりして楽しみました。

戦国・小和田チャンネル

NHK/脚本・池端俊策さんインタビュー


歌舞伎の光秀さんに入れあげてた頃に読んだ人物叢書本が、まだ売られていたのでこちらもリンクしておきます。

当時は総合的にサクッと読める本は他に見つからなかったので、とても楽しく読んだことを覚えています。まあ自分はミーハーな読み方ですけれど❤

レビューを見るといろいろご感想があるようです。発行から時間も経っていますから、仕方のない部分はあるかと思います。歴史は書き換えられることを望むもの、と言う言葉もありますしね。


ついでのついでで、最近YouTubeでよく見ている日本史の先生のチャンネルをご紹介します。もともとのコンセプトは中学生向けの日本史レクチャーらしいんですが、大人もオッケーな講座です。めっちゃくちゃわかりやすくてファンになっちゃいました❤ 

市橋章男のなるほど! 歴史ミステリー

最初に見たのは桓武天皇のあたりだったんですが(なんか歌舞伎の『碇知盛』の「かんむてんのうくだいのこういん~」って台詞が耳に残っていまして)、改めて最初の古代から順に見ています。YouTubeは玉石混交ですけど、先ほどの小和田先生といい、こういう先生方のお話が手軽に聞けるのはありがたい。テクノロジーの恩恵ですね。ほんとにいい時代になったものです。

2021/02/07

週末の花と園芸

この週末は久しぶりに植物三昧でした。花生けに水栽培に剪定まで。写真をとったので記録をば。

まずは花生け。レギュラーの仏壇用なのでいつもはスーパーの束花なんですが、今回は「いかにも仏花」っぽいのしかなく、つまらなかったので花屋さんに行って、バラ売りで明るめのキンギョソウ、スプレー咲きのカーネーション、ドラセナ(近所の店に生花用で並ぶのは珍しく一目惚れ❤)をゲットしました。前回の一部のキクが思ったより元気なので合わせたら、コンセプトがよくわからないものの(笑)、わりと豪華なアレンジになりました。(「仏壇ぽくない」と家族に言われてますが、まさにそれが目的です!)




考えてみると、自分で一本ずつ花を選んで買うことって少ないです。昔の生け花教室ではすでにセットになってましたし、家でもほぼスーパーのセット花。正月花とかをたまにバラ売りで選びますが、予算内で格好がつくように組み合わせるのはけっこう難しくて、自分は時間がかかります。たまにしかやらないので花屋さんで緊張するってのもありますし、ほしい花がお店にあるとも限りません。その場での選球眼(?)を磨くために、予算を決めてちょくちょくやってみようかな? なんて思いました。

さて、次にチューリップの球根を水栽培にしました。じつは昨年『猫ひた』(『猫のひたいほどワイド』というテレビ神奈川のお昼の番組)で、三上真史さん(『趣味の園芸』の司会の方で、水曜に猫ひたのMCもやっている)が「ペットボトルで水栽培」というのを紹介していて、それをやってみたものです。ペットボトルを上下で切り分け、穴のあるほうをさかさまにしてセットし、簡易水栽培キットにします。



器はデザインが気に入った
日本茶のペットボトルです♪


番組では定番のヒヤシンスだったんですが、近所で手に入った球根はダイソーのチューリップしかなく、調べたら2ヶ月くらい冷蔵庫にいれると成功率が上がるというので冷やしてました。ちょっと芽が出てしまっていて心配ですが、3個セットの赤と白を買ったので、一つずつを水栽培に、残りはまとめて外の植木鉢に植えました。外植えはたしか11月頃が本来のシーズンだったと思うのでダメ元です。咲いてくれると嬉しいんですが……ドキドキ。


…続いて自分のなかで懸案だったサザンカの剪定。今日はこれでほぼ一日つぶれました。うちが越してくる前からあったかなり古い木で、伸びすぎると外側を無計画にバツバツ切っていたので、もう内側に伸びて絡まった枝がカオスになってたんです。昨年YouTubeの植木屋さんの剪定レクチャーを見て剪定にはまり、これも何とかしたいと思ってました。高さも少し抑えたいけれど、それ以上にすかし剪定をしたくて。実害を感じたことはないんですが、あまり風通しが悪いとチャドクガがつくと聞いたので……。剪定に適した時期か確認していないんですが、花が終わっているし、自分のやる気も出たので(これが大事(笑))Goしました。

剪定前の写真を撮らなかったのですが、出来上がりはこんな感じ。

 
すかし剪定したサザンカ。
ほんとにスカスカになりました。

切った量はざっとこれの10倍くらい。
 
茂っている中を覗くと「なんでこんなとこからここに出てくる?」っていうヘンな伸び方をしていて、ほとんどがいわゆる忌み枝(内向きに生えてたり、他の枝の邪魔になってたりする切るべき枝)です。それを全部切ると丸坊主になっちゃうので意識して残しましたが、枯れ枝や詰まっていた他の木の枯れ葉も取り除いてスッキリしました。

そうそう、昨年このために買っていた園芸用の三本足の脚立が大活躍でした。安定するので安心して作業ができます。思えば剪定が楽しくなったのは自分用の枝切ばさみのこぎり(木工用ですが剪定にも使用)を買ってから。やはり道具は大事だなあと思います。思ったほど高いものではなかったし、新たな趣味にもなったので、自分には意味ある投資でした。

しかし早くも手首や指の痛み、二の腕のこわばりがきてます。明日以降の筋肉痛がオソロシイ。(^^;)でも気になっていたことをできたので、今は充実感に浸っています。


のこぎりで切った太い枝。
何かに使えそうなのでしばらくとっておくつもり。



最近は少しずつ日が伸びてきましたね。ようやく北側のフェンス際のちょっと高い位置に日が届くようになったので、ビールケースを並べてお休み中の鉢を並べました。これからだんだん地面まで届くようになります。大好きなゼラニウムを寒さに当ててしまったので、再生してくれるよう祈っているところです。


すでに夕方で一筋しか日が当たってませんが、
朝から午後3時頃まで日光浴させることができてます。



最後にきれいめの写真を。1、2週前あたりに買った芽出しのミニスイセンが咲いてきました。テタテッタという可愛い名前です。ちょっと遠くにある安い花屋さんで求めましたが、シーズンにはスーパーでもよく売っていますね。


ミニスイセンのテタテッタ。


昨年も芽出しスイセンの球根を地植えしたんですが、大雨で土が流されて露出し、うっかりそのまま夏の日差しにさらしてしまったので、ダメになったものと思います…。(反省)スイセンは昔から毎年咲いてくれるツワモノさんがいるんですが、「忘れてたけど春になると出てくる」タイプの植物はズボラにはありがたいです。この子も花後に地植えしてみようと思います。ついていた説明には掘り出して夏越しするよう書いてあるのですが、そこまではできそうにないので、たぶん植えっぱなしになると思います……。