2016/06/28

祝・E.H. カーせんせお誕生日❤+『危機の二十年』(とイギリスEU離脱)

何度かここでもご紹介している、今や萌え対象(断言)のイギリスの歴史家・国際政治学者(で元外交官)のエドワード・ハレット・カーせんせ。今日がお誕生日なんだそうです。1892年生まれで1982年に亡くなっているので、生誕124年祝い、としたほうが良いでしょうか。こーいうノリで扱う方ではない気もしますが(^^;)、勝手に盛り上がることにします。おめでとうございますー!

今までものすごくバイアスのかかったご紹介をしている気がするので、wikiにリンク張ります。客観的にははこういう方です。一番読まれている著書は岩波新書になっている『歴史とは何か』。「歴史とは現在と過去との果てしない対話である」というフレーズで知られている…そうです。(自分も拙訳(少し意訳)で小説のエピグラフに引用しましたが、これは有名だと知っていたからではなく、普通に読んで惹かれたフレーズだったから。あとでこのフレーズで知られてるんだと知りました。やはり誰の目にもキャッチ―なんですね…❤)

Wikipedia: E・H・カー

で、せんせの著書の一つでちまちまと読んでいた『危機の二十年――理想と現実』 (岩波文庫、原彬久 /翻訳)をお誕生日に合わせて読了して感想を書きたい、と思っていまして……さきほどギリギリで読了いたしました!(何カ月かかってるんだ私!(^^;))付箋はキリがないので途中から控えるようになりましたが、中身傍線だらけです!ここまで多いとぶっちゃけ線引いてる意味ないです!もー引用したくなるよーな文章多すぎですカーせんせ!ちっとは遠慮して下さいっ!(笑)

読了記念写真。ピカードかんちょを立たせたのは、自分が「外交・国際政治」的なものに初めて萌えを感じたのがTNGで、
カーせんせの著作に感じる興奮も自分にとってはその延長だから。…というのが言い訳です。(笑)



この本のタイトルが指すのは、1919年から1939年の二十年間(第一次と第二次の大戦の間の時期)。「リアリズム(現実主義)」「ユートピアニズム(理想主義)」という概念を使いながら、国際連盟の失敗を中心とした国際関係のあれこれを俎上に乗せています。分析に際して非常に緻密であり、辛辣な「リアリスト」の面と、展望に際して時々「ユートピアン」な面とが混ざり合っています。どちらかの視点を支持して推し進める、というのではないです。だからこそリアルだ、と感じられます。そもそもが結論など出ないトピックだとも思えます。

一方で、この方の文章って、前にも書きましたがものすごく要約しにくいんです。まとめても意味がないというか、省略できる部分がない。だからご紹介するとしたら、引用をして、「あとは原著を読んで下さい」としか言いようがない。(^^;) 『危機の二十年』はアーノルド・J・トインビー教授には解決策が書かれてないとつっこまれたそうなんですが、解決策という「結論」を書くための本ではなく、問題の構造の読み解きと切り口がメインディッシュ、という感じなんですよね。

ここでカー自身がどういう背景を持つかが大きいと思うのですが……彼は一次大戦終結後…ピッチピチの二十代…に、戦後処理が決められたパリ講和会議にイギリス派遣団の一員として随行していて、そこで外交の現場を見て「失望」しています。そこで決められた条約はドイツに対して報復的であり、国際連盟もその後あまりに「ユートピア的」な理念で失敗している。そのへんの若き日の(ばかりではない)幻滅が、この方の根底にあるように感じられます。(でも、そういう「今風のまとめ」はこの方には禁物です。というか、現実は「まとめ」られるようなものではない、ということをこの方はそのまま垂れ流した芸風(?)で、そこが読みにくくも信頼できるところなのです)

今では「ヒトラー」を単体で悪魔のごとく考えるのは「常識」になっていますが、二次大戦が起こる前はそこまで想像できなかったわけですよね。カーは当時のドイツに対してはむしろ宥和的で(のちにヒトラーの本質を見抜けなかったと認めていますが)、ドイツは一次大戦後に報復的な条件を飲まされた国だ、という考えがありました。これは当時珍しい見方ではなかったようです。この流れで見ると、ヒトラーの台頭はドイツへの無茶で報復的な戦後要求への反動、という認識からドイツ宥和策に賛同するのは理解できます。(たしか経済学者のジェフリー・サックスも、「ハイパーインフレがヒトラーの台頭を生んだことを忘れてはいけない」と書いていたと思います。だからやったことを免罪できるとかいう話ではなく、そういう要因が含まれていたと認識することが、歴史から未来への教訓になるんだと思います)

カーは外交官時代に関わったロシアへの興味からソビエトロシアの研究第一人者になり、共産主義者だと偏見を持たれつつも、実際はそうではないようで……ああ、ほんとに書いたものと同様、単純に「これ」と言いにくい人で、すごく緻密な描写をしなくちゃいけない人です。でも、人間て実はみんなそうじゃないでしょうか。

…カーの本は、要約しにくいだけでなく、先ほども書きましたが、正直読みにくいです。この本のAmazonレビューでは新訳は読みやすいと書かれてますが、論の進め方が自分の目には読みにくい。しっかり集中しないと、意味がスッと頭に入ってこないです。(私だけでしょうか。最近またワーキングメモリが弱っているし(^^;))ある意味「当たり前」とも思えることを、誤解されないように緻密に表現すると、こういう風になる……という感じです。変な例ですが、ネットの記事の書き方として推奨されるような「わかりやすさ」の対極にある気がします。でも、だからこそリアルなんです。

ネットで「わかりやすく」「まとめ」られてるようなものは、あえて意図的に編集して簡略化・極論化されたものが多いと感じます。端的に言えば、ネットの記事はヘッドラインで人目を引いて読んでもらい、多くの場合は広告を見てもらうことが目的。タダに見えるネットは、実は端から端まで商業主義の「釣り」の権化です。だから必然的にパっと見てわかることがもてはやされやすく、浅薄になりがちです。こういうものに慣れてしまうと、こういうものしか理解できない・あるいは自発的に「食いついて」理解するのが面倒になります。思考の筋肉が脆弱になるというか、操られやすくなる気がする。そういう流れはすでに出ているように思うので、日々ネットに触れていることに自分でも怖さを感じています。

ちょっと話がそれてしまいましたね。(^^;) それはそうと、イギリスがEU脱退を決めたこの時期この本を読むことは、ものすごく刺激的でした。この本が書かれた頃、EUのようなものはまだ夢物語でした。進歩はあったわけで、そのうえでの今回の状況をカーはどんなふうに分析するだろう……聞いてみたくてたまりません。

予言的とも、今の状況を見ると皮肉とも受け取れる箇所を、いくつかご紹介して締めとします。「えっ、そんな意見?」と思って読んでいると、あとで皮肉な形で扱うための前振りだったりするので、油断がなりません(笑)。(改行は読みやすさのために加えたものです)

さらに、「外国人」に関するイギリス人の心象がどれほど鮮明であるかは、一般には地理的、人種的にどれだけ自分たちと近似しているかによって変わるだろう。(…中略…)

ヨーロッパに駐在しているアメリカの新聞通信員は、事故があったときは、この事故による死者がアメリカ人なら一名、イギリス人なら五名、他のヨーロッパ人なら一〇名になった場合、それぞれ報道に値するという規則をつくったといわれている。

われわれはすべて、意識的ないし無意識的に何かこうした相対的価値基準を用いるのである。

(第3部 政治、権力、そして道義 第9章 国際政治における道義 p.313)


面倒なのは、グアテマラの権利・特権が、アメリカの権利・特権とただ相対的に――絶対的にではなく――平等であるということではなくて、グアテマラがもつ権利・特権がアメリカの善意によって初めて確保されるということである。
(同章 p.315)


自国民の利益と両立できるほどの規模で難民を引き受けるのはその国の義務ではあるが、しかし無数の外国難民に国境を開放することによって自国民の生活水準が下がるとなれば、それは一般に受け入れられる道義的責任とは言えない。(…中略…)

すなわち、国家はそのより重要な利益と深刻な矛盾をきたさない限り、この愛他的美徳を実践するべきだということである。(…中略…)

その結果、安全で豊かな国は、みずからの安全や借金支払いの問題に汲々としている国家群に比べれば、愛他的に行動する余裕があるというわけである。

こうした側面は、アメリカ人やイギリス人が通常もっている考え、すなわち自分たちの国の政策が他国の政策よりも道義において一層進歩的であるという考えの根拠となっているのである。

(同章 p.303-304)


国際的融和を求める人たちは、社会的階級間の和解プロセスをこれまである程度成功に導いてきた諸条件をみずから研究していけば、うまくいくかもしれない。

すなわち、対立の現実を素直に認めて、しかもこれを邪悪な先導者の幻想として片付けてはならない、ということである。

つまり、わずかな善意と常識があれば、それ自体を十分維持できるのだとする利益自然調和〔※支配的な者の利益=全体の利益というもっともらしい理屈〕の安易な仮説は、これを忘れ去ること、

そして道義的に望ましいものと経済的に有利なものとを同一視してはならないということ、

さらには不平等を緩和して紛争を解決するため、必要なら、経済的利益は犠牲にされなければならない、ということなのである。
(結論 第14章 新しい国際秩序への展望 p.447)


これまでの章でのべたように、犠牲を払うという動機に直接訴えればつねに失敗する、と決まっているわけではないのである。

これもまた、ある種のユートピアである。

しかしそれは、世界連邦のヴィジョンや、より完璧な国際連盟の青写真に比べて、より直接的に新しい進歩の方向を指し示している。

これら格調高い上部構造は、その基盤を探り出すのに何らかの前進があるまでは、その実現を待たなければならないのである。
(同章 p.452)



巻末の訳者解説によると、『危機の二十年』は1939年秋の第二次世界大戦勃発とほぼ同時に刊行されたとのこと。その時点でのカーせんせの思索の果実であり、もちろんその後亡くなるまで進化していくわけです。続編ともいえるらしい『平和の条件』を読んでみたいのですが絶版で、古書もマーケットプレイス等では今のところ見つけていません。市内の図書館サイトを見てみたところ、貸出中のうえにすでに予約者二人。三番目に並ぶことにして予約しました。(^^;)やはり今注目される人なのかもしれません。