"The Royal Hunt..."はインカ帝国を征服したスペインのピサロと、滅ぼされたインカ皇帝アタワルパの間に芽生える奇妙で強烈な心理的つながりを描いていて、映画で両者を演じたロバート・ショウとクリストファー・プラマー、特にプラマーの艶姿には鷲づかまれたわけですが、昔イベントでお会いした史実に明るい方は「そんなことはありえない」ともおっしゃっていて、それにも同感はするのです。
以前どこかで拾った画像ですが、今ソースを見つけることができません。すみません(^^;)
ただ、そこで改めて思うのは、歴史に題材をとった創作作品は、史実をなぞって見せることが目的ではない、ということです。もちろん歴史考証は大切だと思いますが、論文とは違います。考証を見せることが目的ではなく、その出来事から描き出せる感情や人間の関係性(もちろんエロティシズムなども含めて)、視点、その他もろもろ、より普遍的なものを表現するためにその特定の題材をまとう、あるいは逆に、歴史を読み込む過程でそういう「発見」あるいは「発明」が生じるのだと思います。(今さら自分などが言うのもおこがましいかもしれません)歴史的な興味と「作品としての面白さ」を両方楽しむということでは、そもそも「歴史改変もの」というジャンルはあるのですから、それを意識して謳うか否かという違いだけかもしれない、とさえ思います。
シェーファー作品でよく知られている『アマデウス』も、最近モーツァルトとサリエリが共作した作品が見つかったりして、作品に描かれたような関係ではなかったことがわかってきたそうですね。でもあの作品の価値は損なわれないと思います。特定の史実を見せることでなく、より普遍的に「ああいう関係性」を描くことに見事に成功しているのですから。
アタワルパとピサロの関係性も、モーツァルトとサリエリの関係性も、腐女子の感性から見れば(自分にはコレから完全に自由になることは不可能です(笑))強烈に「萌える」対象です。BLでなくJUNEの世界なのですよね。こういう萌えは同性愛である必要はないというか、むしろあからさまな同性愛では描けない領域なのです。ピーター・シェーファーは、そういう、「萌えという言葉ではとても足りない強烈なもの」を描くことが、ものすごく得意だった作家さんだと思います。これから見てみたい未見作品もあり、また影響を受けていくと思います。心からご冥福をお祈りいたします。
(宣伝めいて恐縮ですが、別サイトに『王殺し』関連として"The Royal Hunt of the Sun"戯曲を含めて西洋から「蛮族」への視線を深読みしたコラムを掲載しています。ゲイアートとも絡めた萌え視点が強いノリの記事ですが、併せてお読みいただけたら嬉しいです)
〈蛮族の王〉への視線―『ロイヤル・ハント・オブ・ザ・サン』をめぐって―