つばめって人の目の高さに近いところを飛びますね。
歩きながらまとわりつかれてる感じがして、何か伝えようとしてるんじゃないかとか、もっと言えば「こいつオレに気があるんじゃね?」くらいの妄想はすぐに湧きます。
…そんなところから、オスカー・ワイルドは『幸福の王子』を思いついたんじゃないかしら。ヨーロッパは街なかに人間の像が建ってることは日本より多そうだから、容易に頭のなかで結びつきそうだ――とかこれまた妄想に過ぎないのですが、思ったりした今朝の散歩でした。
たぶん、ちょっとググれば「ワイルドはこういうことから題材を得た(らしい)」的な話はいくらでも調べがつくと思うんです。「…なのかなあ?」という発言を書けば、「ググれ」と即座につっこまれるというネットの世界(個人的にはそんなことを言われた経験はありませんが)。たしかにすぐに調べがつくものもある。
でも、それがなんだというのだろう。自分がなにか考えて、頭のなかをめぐらせたその体験自体が、すごく大事だと最近思うんです。自分のことだけではなく、誰かがなにかを「自分の」頭のなかにめぐらせたものって、検索して「正解」を引用するものとは違う、「人の心の存在」を感じるんです。(「人の存在」ではなく、「人の心の存在」です)
もちろん正確な情報を書かないと意味をなさない話題もありますが、そういう「体験」を経ないと、たとえ「正解」に出くわしても、なにか自分のなかに有機的に取り込まれない気がします。
そんなわけで、今回は「正解」や「仮説」は探さないまま、思いつきを書きました。こういう実用性のないことは楽しいな。(笑)