2021/02/18

回顧の対象になった80年代/『YOU』「100回記念 気分はもう21世紀人」感想

昔NHKの教育テレビでやっていた『YOU』っていう番組の再放送が日曜日にありまして、すごく懐かしかったので感想書きます。

公式ページ:
Eテレプレーバック YOU 「特集 100回記念 気分はもう21世紀人」
(2/21までNHKプラスで見逃し配信やってます☆)

『YOU』は土曜の深夜にやっていた若者(っていう言葉はなんか苦手なんですが)向け番組で、司会は糸井重里さん。おおぜいのワカモノが司会とゲストを囲む中で、いろんなテーマでトークをする番組でした。OP、ED曲は坂本龍一さん。いまだに無意識に脳内で再生されることがあります。今ググったら放送は1982~87ということで、がっつりターゲット世代ですね。よく見ていた記憶があって、細かいことは覚えてないんですけど好きでした。OPの絵が大友克洋さんだったのは、放送を見て思い出しました! そうそうこれ! 

正確には、懐かしさと同時にある種の「面映ゆさ」みたいなものも感じます。あの雰囲気……糸井さんのしゃべり方とかかなあ……そのへんから醸し出されるんですね。当時かわいかったですね、糸井さん。生意気風なしゃべり方も含めて。ああいうしゃべり方をする友達はけっこういました。(笑)見ていると、自分や当時の周囲の雰囲気、仲間が肯定していたもの、今も自分のどこかに痕跡を残している青臭い価値観……もろもろが噴出してきます。だから「面映ゆさ」もあるのかな。そしてあの番組の雰囲気、じつは自分にはコミケの雰囲気にも通じるものがあるんです。どこかこしょばゆいけど安心するような。(笑)

今回放送されたのは100回記念番組とのことで、坂本龍一さんのラジオ番組とコラボした変形版でした。ゲストも多くて豪華。原田知世ちゃんはあの頃の髪型(そして『OUT』でゆうきまさみさんが描いてたあの姿の似顔絵)で覚えているので、むしろ今のほうが仮装みたいに感じます。(いや、それ他の人にも感じるぞ? あの頃から頭の中身が変わってないのか私(笑))素子姫(作家の新井素子さん)は現在のコメント映像もあって、話し方が変わっていないことに妙な感動を覚えました。(十代の頃読んだきりでした……)

今『COOL JAPAN』の司会をしている鴻上尚史さんもゲストの一人で出ていて、まだ25歳と言っててうひゃーっ☆となりました。でも今この方が番組でやってるしゃべりの雰囲気が、スタジオの構成も似ているせいか、『YOU』の雰囲気をちょっぴり継承してるのが面白い。(ちなみに「100回記念」の中で糸井さんは鴻上さんに注目していると言ってるんですけど、下の名前が読めてなかった(笑))後半は(ラジオのほうのゲストだった)中沢新一さんも加わったりして、総じて当時の「文化系」にとってのアイドル的な方々が登場していた感じです。


さて、いろんな話題が出てきたんですけど……これが放送された当時、1984年時点での「行き詰まり」「新しいものが出てこない」みたいなお話が出ていて、「新しい」って自分にとってなんだろう? と考えました。そこからイモヅル式に思考が横跳びしていっちゃったので、ここからは見た後にごちゃごちゃ考えたことを流し打ちした文章を載せます。番組の感想ではなく、それが引き金になってあてどなく転がった思考です。(正確には録画視聴していたのを時間切れで「もうちょっと」ってところで切り上げた時。その後最後まで見ました)「ですます調」に直す時間もないので(つまり見逃し配信やってるうちにアップしたいので)、キャラが変わって見えますがご了承くださいませ。とりあえず未整理そのままの、自分の思い付きの記録として残します。

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見ていて思ったんだけど、 新しいと思うのはその前の「古いもの」を体験しているからなんだよね。その体験なくいきなりそれに接したら、「古い/新しい」という基準では「新しい」とは思わない。むしろ自分が生まれる前のものでも、「発見」すれば、自分にとって肯定的な新鮮さがあれば、「新しい」と表現するだろうと思う。古典芸能も東映時代劇も、そういう意味で自分には「新しかった」し、80年代はそういう言い方が「許される」時代だったと思う。「自分にとっては新しい」ということを、堂々と言える空気があった。今はもう少し息苦しい感じがする。「自分にとっては新しい」に対して、どこからともなくやってきて「そんなことも知らなかったのか」とフタをする空気が。当時は逆に、動脈硬化を突破する力として「初めての人」の視点を肯定する空気があったと思う。思えば充分独自の文化だね。

その「(自分にとって)新しい発見」であるレトロと、自分が体験した時代を回顧するレトロはまったく別物だ。当時自分が見た歌舞伎は新しいレトロで、今私が見る『YOU』は回顧としてのレトロだ。それでいくと、より若い世代が80年代の風俗を「発見」して、「新しいものとしてのレトロ」として消化することも出てくるんだろう。80年代(自分が馴染んだ時代)が、そういう地位を獲得しうるとは考えたことがなかった。


「60年代」「70年代」は、特有の文化を持っているものとして、それを体験している人たちには特権があるんだろうな、くらいの妙な羨望(?)めいた感覚があった。それくらい堂々として見えたし。でも今こうして見ると、単にその当時購買力がある世代が青春期を過ごした時代で、その風俗を掘り起こすことが広く懐かしい感覚を呼び起こす=商売になる、というだけだったのかもしれない。それが今80年代に来ていると。まあそれを言えば、40年代文化も50年代文化もあるんだけど。

でも、たとえば欧米の1920年代が特に特色を主張できるみたいな、前後との違いが鮮烈な時代はあると思う。1920年代に関しては、もうはっきりと第一次・第二次世界大戦に挟まれて前後との対照はクッキリ。日本の60-70年代(高度経済成長期ともいえるかな?)も、たぶんその前――戦後文化との対照がくっきりしているせいで突出して見えるんだろうな。

今の目線で見れば、80年代はそれ以前より柔らかく、あいまいさを持つようになった時代だったように見える。「モラトリアム」とか「なんとなく」とかの空気。その差は戦後→60年代ほどクッキリとはしていないけど。もちろん当時は「いきなりそれ」を体験している世代だったから、それはただの「標準」であり、そうと意識することはなかったけれど。


番組の中で、パソコンが個人に普及することや、「好きな番組だけを引っ張ってきて見るデータバンク」という表現で今のネットフリックスやYouTubeみたいなものが予見されている。驚くのはそれが予見できたことではなく、その変化がものすごく早かったことだ。当時たぶん自分は(もしかしたら他の人も)その変化はもっとずっと先の「SFな未来」のことだと思っていたはずだ。(この番組はたぶんリアルタイムに見ているはずだけど、詳細な内容は覚えていない)いや、それを言ったら、自分が中高年になる未来はそれこそ想像できないくらい「ずっと先」だと思っていた。


そして今、スマホやネット利用から起こる脳の機能低下が問題になっている。これはさすがに当時誰も予想していなかったと思う。あるいは予想した人がいたのかもしれないけれど、たとえあっても「進歩」を肯定的に語る言葉と行動の洪水の中でかき消されただろうと思う。単純に新しいツールを使うことがかっこいいことでもあったし、そういう人たちが知的に優位に立っているように見上げる空気もあった。

それがこれから単純に逆転するとは思わないが、当時マスコミとは別の発信に意味があったのと同じように、今、誰もが発信する洪水の中で情報を「適切に遮断する」技術に意味が出てきているんだろうと思う。これは逆戻りという意味ではなく。個人でできることだけど、たぶんその「機能」を実装した「商品」という形で現れるんだろう。世の中が「従来型の資本主義」である限りは。だけど、もし今回のコロナの災厄が「もっと未来のことだと思っていた」経済システムの変化をずっとずっと早く到来させるなら、生きてるうちにそれを拝むことになるかもしれない。そんなことを思ったし、それを望んでもいる。


じつはまだ途中までしか見ていない。最後に今の視点での総括のようなコーナーがあると思うから、それとかぶっていたり、あるいはそれを否定するような言葉になっていたらご容赦を。今「自分はこう考えている」とはっきり表現することを再訓練しているところなので。(Twitterで話題の自粛やシュガーコーティングをする妙な癖がついてしまった☆)最近、昔の自分の文章を読み直す機会があって、それ(Twitter)以前に書いていた文章がえらく「面白く」感じられるんだけど、それはそういうフィルターを通してないからなんだよね。今回、それと呼応するアレコレを思い出す番組を見られたことは、いろいろ思うところがある。

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