2021/03/26

(シン・)『ポーの一族』、『薔薇はシュラバで生まれる』感想など

 先日、ものすご~く久しぶりに大型書店(横浜西口の有隣堂)に寄る機会がありまして、これまたもンのすご~く久しぶりに漫画コーナーに行ってきました。特に目的はなかったのですが、なんとなく眺めたくなって。そしたら『薔薇はシュラバで生まれる 70年代少女漫画アシスタント奮戦記』という漫画(絵柄・装丁もちょっと「なつかしい」雰囲気❤)が面陳になっていて、思わず手に取りました。その隣には再開した『ポーの一族』の『ユニコーン』も。なんか年代的に狙い撃ちした面陳だな~と思いましたが(笑)、久しぶりの「まともな」リアル書店参りですし(地元には品揃えが残念なツ☆ヤさんしかないので…)、贅沢をしようという気分になって2冊まとめて購入して参りました。


『薔薇はシュラバで生まれる』と新生『ポーの一族』で最初に買った『ユニコーン』、そして後から順不同で買い足した『秘密の花園』、『春の夢』。


『薔薇はシュラバで生まれる』

まず前者は、サブタイトル通り「70年代少女漫画アシスタント奮戦記」のエッセイ漫画で、著者は笹生那実さんという、ご自身も漫画家でいらした方です。当時はアシスタント専門というより、漫画家さん同士でお手伝いをしたりすることが多かったのですよね。お手伝い先がすごいです。美内すずえ先生、くらもちふさこ先生、三原順先生、樹村みのり先生、山岸涼子先生……それぞれの先生の似顔絵がその先生のタッチに似せて描かれているのもすごい。そしてそれ以外にも、木原敏江先生、萩尾望都先生、鈴木光明先生などなど、さまざまな方が言及されます。(じつは学生時代、鈴木光明先生が渋谷の「花の館ビル」で主催されていた少女漫画教室に通わせていただいておりました。懐かしいです……!)

「シュラバ」の雰囲気は、学生時代の漫画描き仲間の間では憧れさえあったものでした。が、今はそういう目線ではまったくなくなっています。もっとも、「自分には時間に追い詰められての創作活動などできない」と自覚したのはだいぶ昔、アニメーターをやって体を壊した頃のことです。なので、(昔の自分ならしたような密着した感覚でなく)より心理的な距離をとった読み方ができたと思います。でも、本のなかで著者さん自身が樹村みのり先生にいただいたというアドバイスが心に響きました。「あなたは完全主義なところがあるでしょう。そして不完全なものなら描かないほうがマシと思っているでしょう」…活動が漫画であるか否かに関わらず、響く方がたくさんおられると思います。

漫画を描くには商業的な「漫画家」になる以外に道がない、と思い込んでいた頃と比べると、マイペースで好きな作品を作ることができ、発表したり販売したりまでできる今の世の中は夢のようです。この年になってもなんらかの形で自由に創作ができることは(もっとも大量の絵を描く体力はもうないので、小説とイラストになっていますが)つくづく幸せだなあ、なんてことも思いました。


(シン・)『ポーの一族』

さて、次に新生『ポーの一族』。の、コミックス二冊目。じつは連載が再開した時に、舞い上がって掲載誌を買い求めた一人でした。でも絵柄やお話のトーンの変化にちょっと食指が動かなくなって、その後は追っていませんでした。ですが、今回気まぐれに読んだ二冊目で引きずり込まれまして、そのあと地元の書店にあった三冊目の『秘密の花園』、最後に通販で一冊目の『春の夢』、とすぐに買って変則的な読み方をしてしまいました。

でも、3冊の中でぶっちぎりに面白かったのが『ユニコーン』でした! アマゾンのレビューを読み回ったところ、なぜか同士の方が見つからないのですが……まあ、わりとそういうことには慣れてオリマスけれど。あはは。(^^;)

自分が「持っていかれた」のは、エドガーが持つ「鞄」の大ゴマ。これでもうガーンと。他の巻はこの続きが気になって買い集めたようなものです。時系列がランダムな読み切りシリーズなので(もちろんこの順で開示していくことに意図がおありなのだと思いますが)、その顛末はまだ、コミックスになった範囲ではわかりません。これは追うしか。もちろん最初はファルカやブランカの背景もわからなかったので、三冊を読み終えてからの再読時は面白さが倍増していました。音楽がたくさん出てくるので、タイトルでYouTubeを検索して聴いてみたり……ありがたい時代ですね。どれも曲だけは聞き覚えがあり、こういう名前や来歴だったのかー……とわかる楽しみもありました。

絵柄、特にキャラについては、先生自身がだんだん調子を取り戻していらっしゃるように見えます。今回『ユニコーン』を自然に手に取ったのも、表紙の絵が再開当初に比べて昔に近くなり、すごく美しく見えたからです。ただ、昔の「あいまいさの美」が感じられた特徴的な背景処理や、背景に溶け込むような輪郭処理はほぼなく、例えれば昔のポーは詩、新生ポーは散文小説のように感じます。その分、一般的な映画のような「散文的な」映像(単に種類の違いで優劣という意味ではありません)にするなら、新生ポーのほうがやりやすいかもしれません。

『ユニコーン』でキーになるバリーがもう少し美男ならよかったのに……というレビューを見かけました。自分も「んー…」とは思ったんですが、これは超絶美形な設定の兄との対照がありますから、たぶん美男にするとドラマの圧力が下がってしまうんですよね。……でも少女漫画ですから、なんらかの記号として「この人は見た目が美しくない人」とわかれば充分だったかもしれません。

思い出したのが、昔見た『リチャード三世』(せむしで醜いという設定のシェイクスピア劇の主人公)。ルックスで言えばむしろ魅力的なアル・パチーノや山崎努さんが、姿勢と表情で醜さを表現していましたっけ。……とはいえ、絵でそれをやるとなると? …顔に傷をつけるくらいしか思いつきません。いっそ仮面か髪で顔を隠して「想像させる」ってのもありかも。でもそこまで「醜い」わけではないですね、バリーは……不気味なだけで。バリーは顔がコロコロ変わるようにも見えます。少しデッサンがゆがむ感じも。先生の今の絵柄で「美しくない人」を表現するのはかえって難しいのかもしれませんね。ともあれ、まだまだ謎の伏線も多いバリーなので、絵柄の変化/進化も含めてこれからに期待しています♪

(…ええと、ゴメンナサイ、萩尾先生の作品に対して生意気なことを書いてしまって。人様の作品で「こうしたらもっといいのでは」を考えるのって、自分の作品より気楽で頭が柔らかくなるので良い勉強になるんです。先生の年齢を考えたら尊敬しか湧いてこないことも書き添えておきます)

とにかく、絵の雰囲気もあってかSF・ホラー的な方向が以前より強めに出ているのですが、自分は面白く感じました。萩尾先生の作品で一番好きなのが『スター・レッド』なので、SF的な部分を受け入れやすいファンなのかもしれません。(そういえば、絵柄は『スター・レッド』の頃に近い感じがします)ポーやトーマはそのだいぶあとから読んで、もちろん惹きつけられはしましたが、読み返した回数から言うと『スター・レッド』がぶっちぎりです。一方、『残酷な神が支配する』はつらくて読み進められず(正直「どうしてお金を払ってこんなつらい話を読まなきゃいけないんだ」と思ったくらい)、振り返るとこのへんからしばらく離れていました。でも「そこを描ける胆力」が萩尾先生の個性を構成する要素の1つなんでしょうね。

(萩尾先生の作品は大好きで思い入れもあるのですが、上記のように好みと違うものや、単純に縁がなくて読んでいないものもたくさんあります。念のため書いておきますね)


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【後日談・新刊のこと】

今回ご紹介した本は、いずれもアマゾンでは購入しなかったのですが、レビューを読みまくったせいかアクセスしたときに萩尾先生の本の広告が出るようになり、四月に出る新刊の広告が目につきました。漫画ではなく、『一度きりの大泉の話』というエッセイ(?)で、有名な「大泉サロン」についての回想録的なもののようです。説明を読むと、つらい思い出を書いたもののようで……。興味は湧かないことはないのですが、今自分があまり精神的に頑丈ではないので(この状況ですし、そういう方は多いかもしれません)、つらい思い出に同調してつらい「体験」をすることになるのでは、という思いもあります。そして何より、あえてそういう思い出を掘り起こす必要があるのか……何かのけじめとしてなされたのか、企画を持ち込まれてそうなったのか、はたまた別のなにかがあるのかはわかりませんが。

封印したい思い出というのは、誰でもあると思います。振り返らずに逃げなくちゃいけない人間関係というのももちろんあります。自分もたくさん逃げ出しました。スマートにできることではありませんし、「友達100人できるかな」が理想とされる社会では肯定されにくい行動なので、あとから自分を責める気持ちになることもあります。が、たぶんその(自分を責める)必要はないのだと思います。ない方がましな人間関係はたくさんありますし、思い出すことが立ち直ることを妨げるなら、それを(少なくとも一時的には)避けるのも方法の1つ、というのはたいていの共通理解ではないでしょうか。

(その意味で、つらい災害の映像を「忘れるな」と毎年流し、報道機関が大きく扱うことには複雑な気持ちを持っています。今後の備えという意味ではもちろん風化させてはいけないと思いますが、日本の報道は感情的なところに拘泥する傾向があり、3/11前後は「この時期テレビを見たくない方も多いのではないかな」と思いました。これはまた別の話☆)

…じつは昨年、自分が感じる生きにくさの一部に「HSP」という名前がついていることを知り、それだけでずいぶん楽になりました。(人口の五分の一はお仲間だそうで、自分だけじゃないというのは救いです)これについてはまた機会があれば別に書きますが、尊敬する萩尾先生が人間関係に失敗して「お別れした」体験をされた、と知ることが、心を守るために何かから逃げた自分を頭ごなしに責めず、受け入れることを助けてくれるかもしれない……という思いもあります。

でも、この本を書くために体調を崩されたという萩尾先生。商業出版のある一面を見る思いがして、なんだかやりきれないものがあります。ご自身も「埋めた過去を掘り起こすことが、もう、ありませんように。」と書いておられますが、お書きになったことがある種の解放につながりますよう、もうつらい思いをなさいませんよう、ファンの1人としても祈ります。


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【余談・私事のアレコレ】

…さて、「持っていかれた」理由になった『ユニコーン』の「鞄」の大ゴマですが……じつは半分「あちゃー」とも思いました。自分のある作品の続編で、似た趣向のシーンを考えていたので。さっさと形にしないとこういうケースがどんどん出てくる、という教訓ですね。(ほんとに多いです。こういうこと。のろまなので(^^;))そちらはできるかどうかわからないんですが……とにかく今やってることを進めなくてはです。

それと……じつはこの『ポーの一族』との再会の場となった横浜西口のダイヤモンド地下街(今はザ・ダイヤモンドでしたか)、数年前にここの食品街でバイトをしていたことがありました。入った店舗にちょっとブラックなところがあって、トラウマができてしまい、辞めたあとも地下街自体を避けるようになっていました。(いつも流れる音楽を聴くだけで気持ちがふさいでしまうので)

昨年その会社が(コロナ禍のせいかもしれませんが)倒産して、もちろん店舗もなくなり、こういっては失礼ですがほっとしました。やっと自分の呪縛も解けてきて、地下街が以前の自分にとっての「西口」に戻ってきそうな気がしています。(横浜、ではなくなぜか「西口」と呼ぶんですよね。うちだけではない横浜市民の習慣らしいです)じつはその精神的な「リハビリ」(?)も兼ねて行った西口でしたが、有隣堂も気楽に見るのはものすごく久しぶりで、自分のルーツをいろいろ確認することにもなり、感慨の深い体験となりました。