「気になるニュース」タグですが、ニュースというより気になるネット記事の記録と感想です。(このタグはその傾向が強くなっていくかも)。文体がシンプルになってるのでご容赦を。
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なぜSNSのアルゴリズムは10代の少年に暴力的なコンテンツを見せるのか[BBC]
https://www.bbc.com/japanese/articles/c75nyvy2955o
影響を受けるのは、もちろん子供だけではない。商業的アルゴリズムの強制力の前には大人だって深刻な影響を受けている。前者の記事にある「時間の経過とともに過剰な商業化が進み、金銭的動機が多くのコンテンツを支配」するようになったことを肌身に感じる。
すごく個人的な視野でのことだけれど、以前からぼんやりと、SNSが「こうならいいのに」と思ってきたことはある。広告の多さなどの問題とは別に、基本的な機能として。
X(Twitter)で言えば、「いいね」やリツイートの数(まだXの用語に慣れない)はされた本人が「見たければ見られる」程度でいい。他者からは見えないようにするべき。それらをした人のアカウントもわからないようにしたほうがいい。そのほうが無意味な「義理」の行動をしなくてすみ、フォロー先も純粋に興味のあるものにできて、誰もが健全にパーソナライズできるはず。コンタクトをとりたい場合はきちんとメッセージを送ればいい(もちろんこの場合はもらったほうにアカウントがわかるようにして)。
もちろんそんなことは、SNSを運営している企業はとっくにわかっているはず。企業として「改善」してきた結果がこれで、優先事項がユーザーの精神衛生ではなく、ある種の収奪——時間や意識を向ける先/集中力、根本的には金銭——というバランスが行き過ぎたためにこんなことになっている。(余談だが、こういう資本主義の暴走は、これまでSFのネタになりにくかったように思う。人間を経済学の仮想世界のように合理性で動くものとみなし、テクノロジーの進化のほうに魅力を感じるのが伝統的なSFだから。でもSFと一般エンタメの境界が薄れてきているし、これからは変わると思う。てかそう期待する)
昔から言われることだけど、この手のテック企業のトップは自社製品を自分の子供には使わせないらしい、というのは説得力のあるお話。だけどここまで問題が見えるようになってきたら、対策をとらざるを得ない方向に私たちが後押しするべきなのだろう。
注意を引くためだけの「いいね」は特にビジネス系アカウントに多いけれど、本当にうんざりする。個人アカウントでも、単にキーワードで「いいね」をして回っている場合はプロフィールページを見るとすぐにわかる。これはnoteなど他のSNS系機能を持つプラットフォームでも同じ。とても印象が悪いのだが、これがSNSの使い方として推奨されていることがよくある。
でもこのシステムは、ネット上のコミュニケーションの質を大いに劣化させたと思う。先日のテッド・チャン氏の言葉を借りれば、相手と自分に対する「期待値を下げた」。(ご紹介記事はこちら:テッド・チャンさん備忘録「営為としてのアート:「AIがアートを作れない理由」を読んで」)これはAIに対して書かれた言葉だけど、劣化したSNSにもあてはまる。
アマゾンのビッグブラザーっぷりは嫌いなのだけど、皮肉にもkindle書籍の著者ページ機能で見つけた「フォロー」は純粋なフォローだ。フォローしていただいてもこちらからは誰なのかわからない。フォローする側に立つときも、自分が特定される心配はない(少なくとも著者からは特定されない)。双方向でないことで、かえって歪んだ使い方を回避できているのは本当に皮肉なこと。
ネットは本当に息苦しい場所になった。そもそも、「パソコン」を使い始めた頃の使い道はオフラインがメインで、通信ありきではなかった(少なくとも自分は)。使うのが「楽しかった」ことを覚えている。今はあらゆるサービスやソフトまでが「ひも付き」になって、課金・誘導広告のための監視だらけになり、データが流出してよからぬ目的にまで利用されている。
ヘビーユーザーではないし、昔はよかったなんて言いたくもないけれど、ここ20-30年のスパンで言えば、技術の進歩に反比例してネットでの体験が「劣化」しているのは(自分の限られた経験でも)確か。単純に何かを調べようと検索した時ですらそうだ。ノイズが多すぎる。UX(ユーザーエクスペリエンス)って言葉があったはずだけど、今は相当優先順位が下がっているのかな。
自衛策としては、やはりとりあえずは利用を減らすこと、そして余力があるなら利用するものを吟味して移ること、なのかもしれない。Xは公共の情報・連携基本ツールとして普及してしまっているので始末が悪いのだが、これだって私たち「お客」がいればこその「商品」なのだから。
あるいは、もしネット版「コロナ禍」みたいなことが起こったら、いらない部分を洗い出す過程を社会全体で共有しやすくなるかもしれない。コロナ禍で「仕事の多くがリモートでもでき、無駄な会議はいらない」と判明したように。生身のコミュニケーションの大切さを再認識したように。