昨年おそるおそる剪定した牡丹。(雨の前に撮影) 小ぶりながらつぼみが8つもつきました。 |
見聞きした言葉のメモや、そこから思った戯れ言などとりとめなく……。
(これまでもそうですが、「ただの日記」は独り言に近く、文体が「ですます」になっていません。いつもとトーンが違うのでご了承くださいマセ)
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まずは昨日の新聞記事から。
"プーチン氏は戦争ではなく、社会主義という共通体験を持つウクライナやベラルーシ、カザフスタンやジョージアなど旧ソ連圏諸国と手を携えて、欧米型の新自由主義に代わる「新たな普遍的価値」を示すことを目指すべきだった。"朝日新聞「大国のはざま、東欧「小国」の苦難 南塚信吾・千葉大名誉教授に聞く」より
まさに。ウクライナ危機がニュース番組のメインテーマになる前は、資本主義の行き詰まりがさかんに取りざたされていた。いろいろな知恵を出し合うことが必要な時だ。
「プーチンは判断を誤った」と連日の報道でもさかんに言い立てている。反射的に、日本がかつて「判断を誤った」ことを思い出した。同じ轍を踏むな、という呼びかけもあり得るはずだ。そうするためには、もちろん過去の自国の「判断の誤り」を認めなくてはならない。それが簡単なことでないのは、歴史を見たり、何より自分自身の過去の失敗に置き換えて自分がどう感じるかを考えればわかる。けれど、そういう過去を認められる懐の深さや精神の強さは開発できないものだろうか。進化の方向として。
人間は「いつか」「どこかで」「必ず」誤る。「邪悪な面」も間違いなく持っている。それは本当だと思う。それは特定の人々が生まれつきそうなのではなくて、誰でも環境によって、そういう面を引き出されやすくなることはあり得ると思う。反対もある。環境によって、より理想主義的な側面が引き出されやすくなることが。
それをリアリズムとして受け止めた上で、「そういう欠陥を持った人類」が全体として「より理想的な形で」(これは個人的な望み)生きつづけていく方法を見つけて、実践しなくてはならない。それが出来なければ、私たちは滅びるのだろうと確信をもって思う。こんな人類は滅びた方がいいなどと言うより、良い方に変えていけると思いたい。
相手を「敵」とみなし、孤立させ、それに「勝つ」という「考え方の枠組み」は、病巣は切り捨てればいいという西洋医学の思考にどこか似て見える。
全体としてとらえ、調子を整えて望ましい方向へ持っていくという「考え方の枠組み」(それが短絡的に東洋医学的と言っていいかどうかはわからないけれど)、とにかくそういう発想が必要なんだろう。
これは個人についても同じだと感じる。人間には欠陥がある。ある人は暴力性、思慮のなさ、ある人は臆病さ、過剰な繊細さ、etc.。
人類全体を一つの生命体と考えたら、どういう方向に進化するのが望ましいのか。
戦争レベルの争いを減らすために必要なのは、まずはすべての人が経済的に救われることだろうな、という実感。不公平をなくすこと。言い古されたことじゃないか。
今回の西側の反省として、ソ連解体後にロシアを取り込んでこなかったことが挙げられている。その意味では、対処するべき問題は西側にこそある。わかりやすいところでは、先日ジャック・アタリが指摘していた「アメリカは常に敵を必要としている」ということ。これはアメリカばかりでなく、いろんなところで、いろんなレベルで起きていることだとも思う。それを少しずつでも改善しない限り、今回の問題が終わった後も、同じ事が続くだろうことは素人の自分でも想像がつく。民主主義にも未解決の問題はたくさんあるのだし、自分たちの中の問題、時代遅れのパラダイム、それを認め、直面し、対処しなくてはならない。時間がかかっても。
加害行為を防ぐこと、止めること。被害者となった人に手を差しのべるのは当然だけれど、それでは遅い。(何を待っているんだ?)
対策が必要なのは加害者、というより加害行為そのものだ。それを止めること、防ぐことこそが課題。
加害行為は誰もがなし得る。今回でいえば、行為の主体が何人かが問題なのではなく、加害行為そのものこそが防ぐべきターゲットであるはずだ。
国連のグテーレス事務総長が、ロシア・ウクライナを訪問するという。国連も問題があることについては、最近少しずつ情報に触れるようになっているけれど、ここでは期待したい。人類のなすべき方向に、少しでも近いように見えるから。少なくとも「より強力な武器を」という方向でだけ後押しをして、戦いをエスカレートさせることよりは。
この方向(戦闘でない方法)に、知恵を絞らなくてはならない。アメリカはこの点では当てに出来ないように見えるのがやりきれない。以前テレビに出ていた駐日ロシア大使が、アメリカが侵攻した時に世界は同じ反応をしただろうか、ダブルスタンダードだ、と訴えていたが、その点についてはうなずけた。そしてアメリカが国際刑事裁判所の締約国ではないというのも最近知った。自分の国が訴えられると困るから、らしい。正直ショックだったけれど、そういえば、アメリカは昔からそういうところで動いているのだなぁ。日本はどうだろう。「欧米諸国と歩調を合わせて」の範囲でしかないのだろうか。もちろんそれだけでも意味はあるのだけど。
理性を呼び覚ますこと。理性を保ちやすいのはどんな状態の時か、自分のことを考えればわかる。危険や空腹の中では難しい。ちょっと寝不足なだけでも変わってしまう。
その理性を呼び覚ませる状態を作ること。相手にもその環境を与えること。もちろん絶対的に相容れないこともある。だがそれさえ、何かコツを見落としているだけなのかもしれない。あるいは覚悟が足りないだけかも。
第三者がなしうること。遠くにいるからなしうること。
距離をとること。(個人間の問題はこの手を使えるが、隣国から引っ越すことはできない)
公正であること。成長を促すこと。
先週の『報道1930』では、興味があったロシア正教について特集されていた。その中でお笑い芸人のパックンが「平和を煽る」という表現をした(宗教が本来なすべきこととして)。こういう言葉は好きだ。当事者でないからこそ言えることだと思うし、するべきことだと思う。それが具体的にどういうことを指すかが、私にはまだわからないけれど。
それと同時に、別の違和感もいくつか、じつはこの危機のへ報道が始まってからずっと感じてきた。
それと同時に、別の違和感もいくつか、じつはこの危機のへ報道が始まってからずっと感じてきた。
同じように痛ましく、人に対して許されない状況が、他の地域の人にさんざん起こってきたにも関わらず、その被害が、「見た目がヨーロッパの白人」(言語や文化が主流の西欧派とは違うとしても)である人々に及んだとたんに、報道がそれ一色になったように感じている。ここにもダブルスタンダードを感じる。非ヨーロッパ圏の同様の問題に関して、被害を受けた人々が住む国の国旗のカラーを日本で大々的に掲げたり、一般の人が国歌を歌って見せたりしただろうか? この手の「支持の表明」には、なんともいえない違和感を別の意味でも感じた。もちろん無関心よりずっとずっとましなことなのは間違いないのだ。けれど、まるで流行のファッションに身を包もうとするかのような、地に足のつかない心地悪さを感じてしまった。寄付や祈りに対してはそうは感じないのだが、なぜだろう。そんなヘソの曲がったことを感じている自分自身に問題があるのだ、とは思いつつも、それが正直な気持ち。今の自分の限界なのか。
自分自身、被害を受ける人々が「見た目がヨーロッパの白人」になったとたんに、ショックの受け方が大きくなった。単純にテレビのニュースの影響を受けたとも言える。しかしもっと肌の色が濃い人々、もっと貧しい身なりをしている人々が、廃墟のような街を歩いていたり、「難民」という立場に立たされているのは「漫然と眺めていられた」。もっといえば「目にすることに慣れていた」。なんてことだろう。こんなところにも、自分の思考回路が抱えている、課題の一部が表れている。
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今朝の雨上がりの牡丹の葉。水滴が美しかった。 |