2014/02/27

ナショナル・シアター・ライヴ『フランケンシュタイン』ベネさん怪物バージョン感想+メイキング、再上映決定ニュース

感想の前に…フランケンシュタイン再上映と、マーク・ゲイティス兄も出ている『コリオレイナス』(主演はトム・ヒドルストン)等今後のナショナル・シアター・ライヴ日本上映予定決定のニュースがありましたので、リンクを貼っておきます!わーいめでたい!

『フランケンシュタイン』再上映、『コリオレイナス』など「ナショナル・シアター・ライヴ 2014」の日本上映ラインアップが決定 - 2014年2月 - 演劇ニュース - 演劇ポータルサイト/シアターガイド 
いくつか同じ内容のニュースページがあるんですが、ここは一番写真が多いので(笑)ただ、日本橋他となってて他にどの劇場でやるのか詳細がわかりませんね…ニュースページでなく、常に最新の予定がわかる公式ページがないかと探してるんですが…東宝サイト内にもまだないですね…

トレイラー:National Theatre Live 50th Anniversary Encore Screenings: Frankenstein trailer 2



メイキングがYoutubeに上がってました!劇場で冒頭に上映されたのはこれを編集したものだったんですね。実際の舞台の映像も見られます!


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イベントやらなにやらでなかなか書けませんでしたが、ようやく感想を書きます。ベネさん怪物バージョン。(例によって記憶に頼ってネタバレも書いております。うろ覚えの部分もあり、台詞その他は正確でないところがあると思います。覚えている大意で書きますので、ご了承下さい)前回のミラー怪物版の感想で、原作とのおおまかな比較などは書いたので、今回はミラー版との比較などを中心に、印象に残ったところを書きます。またもや長いですが(^^;)、お許し下さい。

ベネさんの怪物はやはりミラー版とまったく違う解釈で、ヴィクターを演じるジョニー・リー・ミラーカンバーバッチとは違う解釈二つのバージョンを見比べるという贅沢な体験はエキサイティングでした!…加えて二回目のせいもあるのか、脚本・台詞自体の持つ意味付けなどが伝わってきて、これまた新しい視界が拓けた感じでした。

今回は客席も暖まってる感じで、収録された観客の笑い声も多かったし、それに呼応したリアルの客席の反応もあり、最後のカーテンコールの拍手も少し長くできました。(前回はほかにしてる人があまりいなくて早々にやめてしまいました(^^;)。拍手って観客側の連帯感も生まれて好きなんですけど、ほかの人がしてないと恥ずかしいんですよね…連帯感もないわけだし。もっと思いっきり拍手したかった!)今回は上映前についてた映画の予告編が、ベネさんも出演している『それでも夜は明ける』や『ホビット』だったため、前回のようなシラケ感もありませんでした。(笑)

…そうそう、前回記憶から抜けてしまった、冒頭のショートフィルムでベネさんが言っていた言葉…怪物の演技をするうえで参考にした「リハビリ」を観察しての感想は、「痛々しくていとおしかった」でした。怪物もそうだと言っています。


さて、本編…冒頭の怪物誕生からやはり違いました。「リハビリ」を参考にした成果でしょうか、ミラー版がビクビク痙攣する新生児のようだったのに対して、関節の曲がる方向が変だったり、筋肉がへんな方向にひきつっている感じ…ちょっとゾンビのような怪物を連想させる動きでした。のろのろしてるわけじゃないんですが…。(死体から作られてるんですからある意味確かにゾンビとも言えますね)ミラーほどの激しい動きではなく、ファンタジーものに出てくる醜いクリーチャーのような感じもしました。「だんだん神経の配線がうまく機能し始める」という感じもよく出てました。そしてなんというか、すごく「リアル」でした。死体を継ぎ合わせて生まれた生き物なんて見たことがないけど、たしかにこうだろうなあ…と自然に受け取れました。

ミラー版との比較で一番「これは違う」と感じたのは、前回印象的だったシーン…完成間近の女の怪物を見た怪物が、彼女を「愛している」と言うのに対し、ヴィクターが愛はどんなものなのかと聞くシーンです。今回の怪物は、自分が知らないそれ(愛)を「読んだ本から一生懸命思い出して引用している」ような演じられ方でした!うわーまったく違う!とにかくここで愛を理解していることを示さないと「あれ」がもらえない、だからがんばってそういうふりをしている…という感じで、かわいらしささえ感じました。

この怪物はその前の盲目の老人のところで、いきなり教養度の高い本を読んで、経験が伴わない言葉だけの知識を詰め込んでいます。純粋培養な分、つらい体験が歪んだ行動に向かわせているのであって、生来の「悪魔的」要素は無いに等しい。原作でも怪物のほうが人格的に創造者を上回っている、というのが感じられて、その皮肉も味わいになってたんですが、それに近い方向が感じられます。(ただ、怪物もヴィクターも多少原作より矮小化されているので、原作にあったような「怪物の人格のスケール感」までは感じませんでした。これはラストが変わって二人が鏡像構造になったためで、原作に劣るという意味ではありません。キャラは原作とは別物になっています)

ミラー版の怪物は、それを「今自分が感じている」と、少なくとも怪物自身が信じ込んでいる、ストレートな感じがしました。今初めて見たものを愛してるもなにもないんですが(笑)、「あれ(女のクリーチャー)がほしい」=「自分はそれを愛している」ととにかく飛躍してしまって、その矛盾を怪物自身が認識していない感じです。(これはリアルにあることだと思う!)でも勘違いだろうが、言葉自体がなにかの引用だろうが、怪物自身の言葉として聞こえました。今回の印象は180度と言っていいくらい違います。

そして当然それを受けるヴィクターも違うんです!怪物の言葉を信じてるようには見えませんでした。愛情を学んだ怪物を誉めるようなことを言いながら、むしろ皮肉を言ってるように見えて。「そう感じるのか」と言いながら、「ほんとにそんなことを感じるのかおまえ。嘘だろう」と本心では思っている感じ。だから前回感じた「ヴィクターから怪物に対する嫉妬」はまったく感じませんでした。そのかわり、より男性的で攻撃的「悪意ある残酷さ」が感じられました。知りもしない「愛」を、何かを引用して知っているものと嘘をついている怪物は、ヴィクターを騙そうとしているわけです。だからヴィクターが「生意気な」と思うのも自然。それを懲らしめてやろうという雰囲気も感じました。考えてみたら、ヴィクターは禁書を読みふけって死体泥棒をさせる「ヤバイ男」なんですよね。ミラーは意外にもベネさんより身長が低いのですが、ヤバさ・力強さ・骨太感がありますね。ここでは自分自身が愛というものを知らないという自覚はないように見えて、それが出るのはラスト、台詞でそれを述懐するタイミングと一致していました。

前回のベネさん版ヴィクターは、この場面で自分自身が愛という感情を知らないことに気づき、「そういうふうに感じるものなのか」という感じで受けていました。(自分はそう感じました)同じ台詞で、ぜんぜん違う意味になってるのが面白かったです。

脚本上の「台詞の妙」を初めて感じたのは、盲目の老人のシークエンス。老人が「楽園(Paradise)」という言葉と綴りを怪物に教えたあと、怪物の頭を初めて触って、親はどこにいるんだ、と聞くところ。このあと会話がかみ合わなくて、怪物は今覚えた言葉パラダイスを無邪気に口にするんですが、怪物が意識していない(ように見えた)この言葉が、脚本上は皮肉として利いてるんなんだな、と…。今回初めて分かりました。(^^;)前回はただ、子供が今覚えた言葉を面白がって繰り返していて、会話がかみ合わないという感じでだけ見ていたんですけど(そして今回もそこで笑いが起こってたんですけど)、今回はそのギャグ(?)に両親(なんてものはいないけど、概念として)はパラダイスにいる、という皮肉なんだなあと…そんなに重く受け取るシーンじゃないんだと思いますが、なんだかすごく泣けてしまいました。

あとで怪物がヴィクターと体面する場面では、ミルトンの『失楽園(Paradise lost)』も引き合いに出されますから、このイメージは怪物の「親なるもの」(自分を生んだ、無条件で愛してくれるはずの存在=怪物の場合は近似的にヴィクター)がいるはずの楽園から追放された、というイメージにもつながります。そこでは怪物が『失楽園』をなかなかよかった、と言います。(客席の笑いをとってました(笑))、ヴィクターは「アダムに共感したのか」と聞きます。たぶん創造者の驕りというか、「最初の人造人間」の栄誉に浴している怪物が、「最初の人間」であるアダムに共感するんじゃないかと、自分がした扱いを忘れてお門違いの期待をしているようにも思えます。このへんにもヴィクターの自己中心的な未熟さが表現されてるように見えました。怪物はサタンに共感したんだ、と言います。原作でも失楽園についての話は出ますが、怪物の語りだけでヴィクターの質問はないので、ここも今回のオリジナル要素ですね。

もう一つ、「台詞の妙が前回わからなかったけど今回わかった」のは、エリザベスが死んだあと。ヴィクターの父親が、ヴィクターがこんなふうに育ってしまったのを嘆いて「失敗した」と言います。これがヴィクターが怪物を醜い出来損ないとみなしているのと呼応して、怪物とヴィクターが鏡像である、という構造を強調していました。鏡像構造は今回の脚色のオリジナルですし、そもそもヴィクターのキャラも違うので、原作にはないこういう台詞を父親に言わせてるんですね。前回はこれは意識に上りませんでした。

…ヴィクターの弟ウィリアムを捕まえるところ。ここも心理的段取りが違うように思いました。ベネさんの怪物は、ほんとに友達がほしい、というのが先にきてる感じに見えたんです。それが、友達を作るのが下手な、どうやって人とつきあったらいいかわからない…という心理に一般化できる印象でした。怪物のような条件になくとも、相手との間合いの詰め方がわからない、という不器用さは現代人にはよくあることなので、ここの怪物には大いに共感できました。そしてとても痛々しかった…。

怪物がヴィクターの婚礼の晩に花嫁エリザベスのところへ侵入し、その後レイプしてヴィクターの目の前で殺すシーン今回の舞台のオリジナルです。原作ではヴィクターは「あとから」遺体を発見し、そこには怪物はいません。首の絞殺された跡と、怪物が顔を見せて死体を指差すことで怪物の犯行とわかるだけです。怪物とエリザベスが会話をしたという記述もありません。


舞台版の怪物はまずエリザベスと話し、彼女を自分が初めて出会った、思いやりをもった理解者(目の見える人では初めてですよね)だとわかったあとに、彼女に謝って蛮行に及びます。(エリザベスはナオミ・ハリス。たしかラジオドラマのNeverwhereでもベネさんと共演してましたね♪)これは前にヴィクターが怪物の「花嫁」を切り刻んだことへの復讐ですが、ここでは怪物自身が得たもの=理解者でもあるエリザベスを、あえて「ヴィクターの目の前で」殺して見せるという、かなり心理的に複雑な脚色になっています。復讐であると同時に、怪物にとっても心理的な拷問でしょう。(でもヴィクターから憎まれている限り、頭越しにエリザベスとのつながりを得ることなど元から不可能ですし、全体がヴィクターの関心を自分に向けるための行動でもあります)
ここでやはり、怪物のほうが繊細で心理的に成熟していることが伺えます。怪物の花嫁を「殺した」時のヴィクターは、たしかに自分の創造物を失ってはいるのですが、あの場面ではその喪失に対して感情的な痛みなど感じていなかったはずです。ここでの怪物は自分の蛮行を自分で憎み、銃を向けたヴィクターに殺してくれと懇願(と同時に挑発)します。

頼むから殺してくれというここの台詞には、ちょっと不吉な予感が漂います。それがはっきり台詞に出るのはやはりラスト。死んでしまった(ように見える)ヴィクターに、怪物は自分は死ねるのか、と聞いていたと思います。ヴィクターが凍死しかけるような北極圏で、この怪物は薄着・裸足のまま動いていますから、もしかしたら普通の方法では死ねないのかも…。こんな残酷なことはないでしょう。

でも舞台版のラストの怪物は、妄想だろうが現実だろうが、一番愛されたかったヴィクターが彼を生きがいだったと言い、殺すと言って追ってくれるんですから、原作の怪物と比べてとんでもなく幸福だと言えます。だから歪んだハッピーエンドでもあるんですね。「鏡像」としての二人、という構造も完成します。萌えという言葉では軽すぎるんですが、そういう感覚の強烈なバージョンが起こるラストでした。(自分にとってはJUNEがこれです。まさにこれです!でも原作のラストのアンハッピーエンド…最後まで両者が向かい合うことが無い構図…は、さらに強烈でこれまた好きです…!)

…総じてベネさん版の怪物やりとりごとの解釈が細かく、緻密な印象でした。あと、発声が素晴らしいのを実感しました。もともと声は武器の方ですが、いわゆる舞台劇の張った発声も素晴らしかったです。そして笑わせる部分が意識して作られていて、緩急がありました。
ミラー版の怪物は、全編通してもっとストレートで荒々しく、勢いがある感じ。頭より先に体が動いて、心理的にはより矛盾が少なくて、表現は男性的で力強い。これは役が入れ替わってもそういう印象でした。バージョンが変わってもキャラクターは同じ台詞を言うんですが、その台詞を本人(キャラクター)が信じて言っている部分、口先だけで言っていて本心は別にある部分が、両者でかなり違うんです。この対比はほんとに面白かったです!

再上映が決まったのはほんとに嬉しいことです。(見たあとは、「これだけの公開だなんて勿体ない!」とほんとに思いました。作品として大勢の方の目に触れればいいのにと)ここに書いたのは自分の印象にすぎないので、見る方によってまたいろいろなイメージが出てくると思います。とにかくこんなものを見せていただけたことに感謝です!!(ああ語りきれない!)